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人生の楽事
じんせいのらくじ |
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作品ID | 50298 |
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著者 | 福沢 諭吉 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「福澤諭吉全集 第14卷」 岩波書店 1961(昭和36)年2月1日 |
初出 | 「時事新報」1893(明治26)年11月14日 |
入力者 | 田中哲郎 |
校正者 | 小林繁雄 |
公開 / 更新 | 2011-05-07 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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左の一編は十一月十一日府下芝區三田慶應義塾に於て福澤先生の演説したる其大意の筆記なり。
人には何か樂しむ所のものなかる可らず。旅行を好む者あり、閑居を貪る者あり、遊藝を嗜む者あり、書畫骨董を悦ぶ者あり。尚ほ之より以外には財産の増殖に餘念なき者もあれば、功名利達に熱心なる者もあり。其他千種萬樣限りなき人事の運動は、浮世の人々がおの/\其心を樂しましめんとするの働にして、或は之を其人の樂しみとも云へば又は其志とも云ふ。諸君にも必ず何か樂しむ所、志す所のものある可し。折々は相會して之を語り之を論ずるこそ面白けれ。今晩は老生が壯年の時より今に至るまで曾て一日も忘れたることなくして、遂に今に至るまで意の如くならざりし一快樂事の想像を語らんに、老生は本來儒學生にして、今を去ること四十年、年齡二十の頃、始めて洋學に志し、其入門は物理學にして、之を悦ぶこと甚だしく、何か一科の專門に入りて爲すことあらんとの熱心は萬々なれども、時勢の許さゞる所にして、家に資力もなく、朝暮衣食の計に忙くして心を專一にすること能はざるのみか、開國以來の世變を見れば自から默止す可きにも非ず、色々の著述などして時を費したることも多し。左れども物理學の一事は到底心頭を去らずして、之を思へばいよ/\面白く、獨り心に謂らく、造化の祕密、誠に祕密なるが如くなれども、化翁必ずしも之を祕するに非ず、人の之を探究せざるが故なり。蒸氣電氣の働は開闢の初より明に示す所なれども、人間の暗愚なる、久しく之を知らずして、漸く近年に至り始めて其端緒を探り得たるのみ。今後とても人智の次第に進歩するに從ひ、いよいよ之を探りていよ/\之を知り、其知り得たる上にて未だ知らざる時のことを思へば、唯人間の暗愚なりしを悟るのみにして、今日は學界尚ほ暗黒の時代と云ふも可なり。此時に當り一意專心、物理を探究して、造化の祕密を開くは人間無上の快樂にして、王公の富貴榮華も羨むに足らず。之を眼下に見て其生活の卑俗なるを憐むと同時に、自家の空想を逞ふし、例へば動植物生々の理、地球の組織又その天體との關係、化學の働は果して何れの邊にまで達す可きや、宇宙勢力の原則は果して既に定まりたるや否や、など仔細に之を思へば千百の疑問際限ある可らず。滿目恰も造化の祕密に圍まれて唯人智の淺弱を嘆ずるのみなれども、いよ/\進んでいよ/\深きに達し、曾て底止する所を知らざるも亦是れ人生の約束なれば、勇を鼓して知見の區域を擴め、恰も化翁と境を爭ふは是れぞ學者の本領なりと深く信じて之を疑はず、殊に我日本國人の性質を見るに、西洋文明の新事を知りしは輓近のことなれども、知識の教育練磨は千百年來生々の遺傳に存して、新事の理を解するに苦しまざるのみか、起首原造の天資に乏しからずして、洋學開始以來單に西洋を學ぶの時代は既に經過し、今は學問場裡に彼我併立の勢を成して、今後我學者の勉る所は…