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尊攘戦略史
そんじょうせんりゃくし
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「黒船前後・志士と経済他十六篇」 岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年7月16日
初出「中央公論」1931(昭和6)年7月号
入力者ゆうき
校正者小林繁雄
公開 / 更新2010-07-11 / 2014-09-21
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 スローガン「尊王攘夷」はなにも最初から討幕を内容としたものではなかった。反対に、本来のそれは、幕権のためにする名実ともに「天下副将軍」的なスローガンとして生れたものである。
 近世史上の尊王論そのものが、やはりそうで、徳川時代の尊王論の先駆者たち蕃山、闇斎、素行、そして水戸学の始祖光圀らが、時を同じうして四代五代将軍時代に輩出したのも偶然ではない。幕府の基礎はすでに定まって、いわば荘厳工事だけが残された任務だった。特に五代綱吉から八代吉宗にいたる間は、将軍の自発性にもとづく京幕融和は間然するところがなく、尊王と幕府安泰とは背馳するどころでなく見えた。蕃山らがはじめ大藩に厚遇されて晩年不遇におちたのも、むしろ幕儒林家の嫉視によるので、それも彼の学説が大藩に迎えられたためでなくたまたま当年の浪人に――丸橋忠弥がそう自白したと伝えられる――信奉されたという理由から奏功したといわれている。
 九代十代にわたるいわゆる田沼時代は、都市の商業および高利貸資本が台所口で武家支配を抑えるようになった背後の時代的転換を――同時に、内地商業の国民的統一への軌道を――告示した時代だったが、京幕融和も廃り、ようやくラディカルな尊王思想が、反批判として定立された。竹内式部、山県大弐。カムフラージュされた形で賀茂真淵、本居宣長以下の国学派がそれである。しかし、幕末政局を貫流した中心スローガン「尊王攘夷」は、これら国学派尊王論に由来しないで、水戸斉昭に主唱された。
 ゆくすえの幕政倒壊を見越して、その場合にも一門だけは残るようにとの東照神君の神謀から水戸だけは堂々尊王の家筋と定められた、などという説は、まっ正直に家康を神様扱いにする筋から出たものというほかはなかろう。実際は幕権大磐石時代に淵源する水戸学の尊王と徳川家祖法の鎖国とが、時局にたいする副将軍的念慮から結合されたにすぎない。ただ斉昭は幕権に基づいて水戸家尊王論を運用する代りに、水戸家尊王論によって幕策を旧軌に戻そうと試みただけである。とまれそのため天保以降彼の手で「京都手入」が創始された。
 後年将軍家継嗣問題を挾んで水幕の反目最もはなはだしかった。しかも他方幕閣は和親さえあるに今度は通商の決定を迫られているという安政五年正月に、その直前の水藩建白によって下ったといわれる朝廷からの幕吏への示命書には、はっきりと幕府祖法が真向からふりかざされている。
「当度の儀は寛政以来鎖国の厳制を改革し諸蛮夷通信交易等を始め、各国条約取極められ候ほどの儀につき、皇国内の儀とも違ひ云々」。
 そのときの水戸建白書は文政二年打払令(一八二五年)そっくりの口ふんを漲らせたものだった。しょせん水戸斉昭の尊王攘夷は天保薪水令(一八四二年)和親条約(一八五三年)と、鎖国厳制を弛めては蹂躙し去った幕閣にたいする幕府祖法の怒りであった。
 だが、中期以…

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