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福沢諭吉
ふくざわゆきち
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「黒船前後・志士と経済他十六篇」 岩波文庫、岩波書店
1981(昭和56)年7月16日
初出「歴史科学」1934(昭和9)年12月号
入力者ゆうき
校正者小林繁雄
公開 / 更新2010-09-02 / 2014-09-21
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

一 著述家

 慶応二年丙寅初冬付『西洋事情』初篇は出版後一年間の売捌高だけで、正版偽版とりまぜ十万部の上にのぼった。福沢諭吉生誕百年祭を祝うきょうび、日本の出版屋にとって涎の垂れる記録である。同書二篇(明治二年)で紹介されたウェーランド『経済要論』はこの年までにアメリカで二十数版を重ねた教科書だが、その二十数版の総部数はわずか五万、その五万を捌いた年月は三十年にわたっている。当年日本のプブリクムは、『西洋事情』の部数によれば、国際的に見ても驚異的な比率であろう。
 けれどもこのとき著者福沢諭吉は、一年十万の洪水的読者層からは、完全に無縁な一介の文筆家であった。「無縁な」というのは政治的に無縁なる意味である。『西洋事情』(全集第一巻)初篇三巻は「独り洋外の文学技芸を講究するのみにてその各国の政治・風俗如何を詳かにせざれば、仮令ひ、その学芸を得たりとも、その経国の本に反らざるをもつて、啻に実用に益なきのみならず、却つて害を招かんも、亦計るべからず」という立場から、「英亜開版の歴史地理誌数書を閲し中に就いて西洋列国の条を抄約し、毎条必ずその要を掲げて、史記、政治、海陸軍、銭貨出納の四目と為し、即ち史記以つて時勢の沿革を顕はし、政治以つて国体の得失を明かにし、海陸軍以つて武備の強弱を知り、銭貨出納以つて政府の貧富を示」したものである。これに、文久元年渡欧に際して見聞した西洋一般の風俗制度の解説紹介を巻頭に付したものが『西洋事情』初篇三巻である。福沢の書は宿屋の客引案内にすぎぬものという蔭口が、慶応三年版『西洋旅案内』を中心としたものであろうと、これとかれと、つとめて政治的無関心を装うた上で何の差があろう。諭吉自身が抱懐する政治的見解はこの書のすべての頁から最大の注意をもって隠匿された。逆に諭吉の自由主義的徹底開国論が宣伝されている『唐人往来』は、「江戸鉄砲洲某」の匿名で、しかも版行されず写本として、幾分流布されたのみであった。『西洋事情』初篇三巻がこの『唐人往来』と同時代に――文久度帰朝後起稿されたものであることは高橋誠一郎氏の考証(『福沢先生伝』)がある。一方をついに版行せず、他方をしかも慶応二年冬まで待って版行した。すでに佐幕派にとっても倒幕派にとっても、『西洋事情』は自家政見のための辞引であり、語彙であった。一方偽装されたこの書の政治的無関心と、他方倒幕派そのものから「攘夷」のスローガンを陰に抛棄させた「慶応」度必至の内外諸政情と、相まって驚異的な十万の読者大衆をこの書に獲得させたのである。
 無表情のまま日々江戸城内の外国方翻訳御用所へ出勤し、帰れば福沢塾で英語を教え、佐幕派の人間とも倒幕派の人間とも交際はあるが、政治的にはまるで関係しない。「徳川の政府に雇われたからというた所が是れはいわば筆執る翻訳の職人で……ただ職人の積りでおるのだから政治の考というも…

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