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誠心院の一夜
せいしんいんのいちや
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「信濃詩情」 明日香書房
1946(昭和21)年12月15日
入力者林幸雄
校正者富田倫生
公開 / 更新2012-06-12 / 2014-09-16
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 赤染衞門は先程から不思議なものを見た、と云ふ氣がしてならなかつた。併し其れは決して惡い氣持のものではない。いやむしろ先程から清げに、圓滿に落着くべき處に落着いた惱みの道を全く通り拔けて、女として、人間として、最も落着いた境地に入り得た者の、其の姿を見たと云ふ氣で、ともすれば吾れ知らず惹きつけられて、尼君の短かい髮のあたり、その未だ老に入らない不思議な美しさを思はせる下ぶくれの、顎のあたりへ自分の目がいつてならない。そして其の眼は幾度見直しても誤まらないのを知つた。何處といつて、はつきり指しては云へないが、たゞ全體の匂と云はうか、自からの光と云はうか、其の人から湧き出して來る滋味、その動作が、昔の其の人に決して見られなかつた一種の尊い境地に入り得た人の泰然とした落着きに入り得て一切が据つてゐる。さうした人の前に今は心からの禮讃と嬉し涙が落ちて來るのであつた。
 今宵は誠心院に夜通し語り明す事にして來たので、質素にして來た供の者も歸し、ひつそりとした小御堂の中に殊勝に尼君がお上げになつてゐる法華經に耳を傾けつつ、赤染衞門はさながら夢のやうに思つた。和泉式部の華やかであつた時には理解のある赤染衞門自身すらも、淫蕩の女と蔑すんだ此の人の過去の姿を思ひ、現在かうして物寂びた御堂の中に心から誦經してゐる尼君となつた和泉式部を思ひ、人の一生の限り無く擴げられてゆく未來への道を尊く思はせられてゐた。さう云ふ赤染衞門はもう盛りの過ぎた老婦人で、和やかな額の上に分けた髮にも幾筋となく白髮が目に立つてゐた。
 誦經がすんだ處で、靜かに座を離れた尼君は赤染衞門に近くにぢりよつて
「本當に夢のやうな心地が致します。山近きこの里に、此の頃明け暮れ聞くものは、鹿の聲ばかり、それにも馴れて、日が昇れば晝と思ひ、月が澄めば夜と思うて、つい月日さへ數へることもなくて、明し暮す事でございますが、かうして御目に掛りますと、何にか一つの頼り處を得たやうな、さすがに生ける身の喜びを感ずる私でございます。」
 和泉式部は心からの喜びを述べるやうに云つた。
「式部樣お變りなされましたな、本當にお心ばへの程申上げやうもなく、お嬉しう存じます。こちらへ參りまして、久方振りに貴女の御姿に接し、貴女のお上げになる尊いお經をきいて居りますと、今は私の心迄洗はれたやうな心地が致します……。何事も宿縁とは申せ貴女があの道貞殿の問題をそのままにして、世の非難を一身に浴びながら[#「浴びながら」は底本では「沿びながら」]、南院に入ると聞きました時は、さすがの私も世と共に、貴女を非難する心が湧きました。帥の君の御純情は私にもよくよく解つて居りましたけれど、貴女の御心の底の底には、あの時まだ決して、道貞殿を思ひ切つていらつしやいませんでしたものね。貴女は私のお送りした歌に對して『秋風は荒凉ふくとも葛の葉のうらみ顏には見えじと…

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