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或夜
あるよる
作品ID50438
著者永井 荷風
文字遣い旧字旧仮名
底本 「葛飾こよみ」 毎日新聞社
1956(昭和31)年8月25日
初出「勲章」扶桑書房、1947(昭和22)年5月10日
入力者H.YAM
校正者米田
公開 / 更新2010-10-18 / 2016-02-21
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 季子は省線市川驛の待合所に入つて腰掛に腰をかけた。然し東京へも、どこへも、行かうといふ譯ではない。公園のベンチや路傍の石にでも腰をかけるのと同じやうに、唯ぼんやりと、しばらくの間腰をかけてゐやうといふのである。
 改札口の高い壁の上に裝置してある時計には故障と書いた貼紙がしてあるので、時間はわからないが、出入の人の混雜も日の暮ほど烈しくはないので、夜もかれこれ八時前後にはなつたであらう。札賣る窓の前に行列をする人數も次第に少く、入口の側の賣店に並べられてあつた夕刊新聞ももう賣切れてしまつたらしく、おかみさんは殘りの品物をハタキではたきながら店を片付けてゐる。向側の腰掛には作業服をきた男が一人荷物を枕に前後を知らず仰向けになつて眠つてゐる。そこから折曲つた壁に添うて改札口に近い腰掛には制帽の學生らしい男が雜誌をよみ、買出しの荷を背負つたまゝ婆さんが二人煙草をのんでゐる外には、季子と並んでモンペをはいた色白の人妻と、膝の上に買物袋を載せた洋裝の娘が赤い鼻緒の下駄をぬいだりはいたりして、足をぶら/\させてゐるばかりである。
 色の白い奧樣は改札口から人崩の溢れ出る度毎に、首を伸し浮腰になつて歩み過る人に氣をつけてゐる中、やがて折革包を手にした背廣に中折帽の男を見つけて、呼掛けながら馳出し、出口の外で追ひついたらしい。
 季子は今夜初てこゝに來たのではない。この夏、姉の家の厄介になり初めてから折々憂欝になる時、ふらりと外に出て、蟇口に金さへあれば映畫館に入つたり、闇市をぶらついて立喰ひをしたり、そして省線の驛はこの市川ばかりでなく、一ツ先の元八幡驛の待合所にも入つて休むことがあつた。その度々、別に氣をつけて見るわけでもないが、この邊の町には新婚の人が多いせいでもあるのか、夕方から夜にかけて、勤先から歸つて來る夫を出迎へる奧樣。また女の歸つて來るのを待合す男の多いことにも心づいてゐた。季子はもう十七になつてゐるが、然し戀愛の[#「戀愛の」は底本では「變愛の」]經驗は一度もした事がないので、さほど羨しいとも厭らしいとも思つたことはない。唯腰をかけてゐる間、あたりには何一ツ見るものがない爲、遣場のない眼をさう云ふ人達の方へ向けるといふまでの事で、心の中では現在世話になつてゐる姉の家のことしか考へてゐない。姉の家にはゐたくない。どこか外に身を置くところはないものかと、さし當り目當のつかない事ばかり考へつゞけてゐるのである。
 この前來た時には短いスカートからむき出しの兩足を隨分蚊に刺されたが、今はその蚊もゐなくなつた。二人づれで凉みに來たり、子供を遊ばせに來る女もゐたが今はそれも見えない。時候はいつか秋になり、その秋の夜も大分露けくなつた。と思ふと、ます/\現在の家にゐるのがいやで/\たまらない氣がして來る……。
 季子は三人姉妹の中での季娘で、二人の姉がそれ/″\結婚し…

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