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すみだ川
すみだがわ
作品ID50448
著者永井 荷風
文字遣い新字旧仮名
底本 「明治の文学 第25巻 永井荷風・谷崎潤一郎」 筑摩書房
2001(平成13)年11月20日
初出「新小説 第14年第12巻」1909(明治42)年12月
入力者阿部哲也
校正者米田
公開 / 更新2014-09-03 / 2014-09-16
長さの目安約 65 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 俳諧師松風庵蘿月は今戸で常磐津の師匠をしてゐる実の妹をば今年は盂蘭盆にもたづねずにしまつたので毎日その事のみ気にしてゐる。然し日盛りの暑さにはさすがに家を出かねて夕方になるのを待つ。夕方になると竹垣に朝顔のからんだ勝手口で行水をつかつた後其のまゝ真裸体で晩酌を傾けやつとの事膳を離れると、夏の黄昏も家々で焚く蚊遣の烟と共にいつか夜となり、盆栽を並べた窓の外の往来には簾越しに下駄の音職人の鼻唄人の話声がにぎやかに聞え出す。蘿月は女房のお滝に注意されてすぐにも今戸へ行くつもりで格子戸を出るのであるが、其辺の凉台から声をかけられるがまゝ腰を下すと、一杯機嫌の話好に、毎晩きまつて埒もなく話し込んでしまふのであつた。
 朝夕がいくらか凉しく楽になつたかと思ふと共に大変日が短くなつて来た。朝顔の花が日毎に小さくなり、西日が燃える焔のやうに狭い家中へ差込んで来る時分になると鳴きしきる蝉の声が一際耳立つて急しく聞える。八月もいつか半過ぎてしまつたのである。家の後の玉蜀黍の畠に吹き渡る風の響が夜なぞは折々雨かと誤たれた。蘿月は若い時分したい放題身を持崩した道楽の名残とて時候の変目といへば今だに骨の節々が痛むので、いつも人より先に秋の立つのを知るのである。秋になつたと思ふと唯わけもなく気がせはしくなる。
 蘿月は俄に狼狽へ出し、八日頃の夕月がまだ真白く夕焼の空にかゝつてゐる頃から小梅瓦町の住居を後にテク/\今戸をさして歩いて行つた。
 堀割づたひに曳舟通から直ぐさま左へまがると、土地のものでなければ行先の分らないほど迂囘した小径が三囲稲荷の横手を巡つて土手へと通じてゐる。小径に沿うては田圃を埋立てた空地に、新しい貸長屋がまだ空家のまゝに立並んだ処もある。広々した構への外には大きな庭石を据並べた植木屋もあれば、いかにも田舎らしい茅葺の人家のまばらに立ちつゞいてゐる処もある。それ等の家の竹垣の間からは夕月に行水をつかつてゐる女の姿の見える事もあつた。蘿月宗匠はいくら年をとつても昔の気質は変らないので見て見ぬやうに窃と立止るが、大概はぞつとしない女房ばかりなので、落胆したやうに其のまゝ歩調を早める。そして売地や貸家の札を見て過る度々、何ともつかず其の胸算用をしながら自分も懐手で大儲がして見たいと思ふ。然しまた田圃づたひに歩いて行く中水田のところ/″\に蓮の花の見事に咲き乱れたさまを眺め青々した稲の葉に夕風のそよぐ響をきけば、さすがは宗匠だけに、銭勘定の事よりも記憶に散在してゐる古人の句をば実に巧いものだと思返すのであつた。
 土手へ上つた時には葉桜のかげは早や小暗く水を隔てた人家には灯が見えた。吹きはらふ河風に桜の病葉がはら/\散る。蘿月は休まず歩きつゞけた暑さにほつと息をつき、ひろげた胸をば扇子であふいだが、まだ店をしまはずにゐる休茶屋を見付けて慌忙て立寄り、「おかみさん、冷…

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