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比島投降記
ひとうとうこうき
副題ある新聞記者の見た敗戦
あるしんぶんきしゃのみたはいせん
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「比島投降記 ある新聞記者の見た敗戦」 中公文庫、中央公論社
1995(平成7)年2月18日
初出「比島投降記」大地書房、1946(昭和21)年11月
入力者富田晶子
校正者雪森
公開 / 更新2017-03-17 / 2017-01-12
長さの目安約 138 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

[#ページの左右中央]


[#挿絵] 比島投降記



[#改丁]



投降


 昭和二十年九月六日、北部ルソン、カピサヤンにて新聞報道関係者二十三名の先頭に立って米軍に投降。
「朝日」「読売」各三名、「同盟」「日映」各一名、その他は「毎日」関係者。カピサヤンといっても地図に出ていないから若干説明する。ルソン島の北端、アパリ近くでバシー海峡に流れ入る大河がカガヤン河。カガヤン渓谷――黒部渓谷などを連想しては大変な間違いで、実に広く大きな平原である――を流れて、そこを豊饒な土地にしている。この河に沿って、国道第五号線というのが、アパリから南下し、もちろん途中で河はなくなってしまうが、マニラにまで行っている。アパリから約二十キロにラロがあり、さらに二十キロ南下すると、東の方からドモン河という支流が合流する。このドモン河を溯ること約三十キロの地点にある小村落がカピサヤンで、我々は、そこからもっと上流のサッカランという場所から、投降のために下りて来たのである。元来我々新聞関係者の一部は新聞社の飛行機が台湾から救出に来るというので、五号線をもっと南へ行った処のツゲガラオ――ここは日本軍が最後まで守っていた飛行場所在地である――に三月末集合したのだが、米機の銃爆撃は激しくなるし、河向うからはゲリラが迫撃砲を撃込んで来るし、台湾、沖縄等の状況から判断しても、民間機の飛来など可能の余地が全くないので、五月末日、警備隊のS大佐の意見を参考として行動を起し、北上してドモン河の中流クマオ地区に移動したのである。この時軍の南下に従って南下したもの、ツゲガラオにとどまったもの、五号線を避けて――空からの襲撃と河向うからの銃砲撃のために、この国道筋は決して安全ではなかった――山伝いに北方へ行こうとしたもの等もあったが、僕等は真直ぐクマオに逃げこんだ。この地、河の両側約一キロが平地で、丘陵地帯がこれに接している。その丘陵も右岸のは密林におおわれ、敵機の攻撃に対しては安全だったが、地上部隊がすごい勢いで進撃してくるので、七月二十日前後から、野戦病院を初め、多くの非実戦部隊や我々みたいな非戦闘員が、さらに上流地区へ移動し、大密林の中で山蛭にくいつかれながら、いわゆる現地自活をやっていたのである。その内に終戦となり、師団参謀A中佐が米軍と連絡をとった結果、九月五日の病院と婦女子の隊をトップとして、約一週間にわたってドモン流域の各部隊が次々にカピサヤンで投降することになった。いわばこれは筋書を立て、スケジュールによる投降だったのである。向うから雨霰と大砲や小銃を撃って来る中を、白旗を振り廻して降参したというような、劇的な場面とは違って、至極事務的に、スムーズに行われたのである。このことについては、米軍当局の理解や好意、A中佐の努力等も、大きに関係したであろうが、僕としてはA中佐の通訳をつと…

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