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勝ずば
かたずば
作品ID50619
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本かの子全集4」 ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年7月22日
初出「新女苑」1937(昭和12)年12月号
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2010-04-05 / 2014-09-21
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 夜明けであった。隅田川以東に散在する材木堀の間に挟まれた小さな町々の家並みは、やがて孵化する雛を待つ牝鶏のように一夜の憩いから目醒めようとする人々を抱いて、じっと静まり返っていた。だが、政枝の家だけは混雑していた。それも隣近所に気付かれないように息を殺しての騒ぎだった。政枝が左手首を剃刀で切って自殺を計ったという騒ぎである。
 姉の静子は医者を呼んだその足で隣町の若い叔母の多可子を呼びに廻った。かかりつけの医者が人力車に乗って駈けつけた。父親の寛三は血を吹く政枝の左手首を手拭いの上から握りしめていた。
「政枝、先生に手当をして貰え、な、判ったか」
 父親は涙にうるんだ両眼を娘のそむけた横顔に近づけながら、おろおろ声で頼むように言い続けた。だが政枝は寝床の上に坐ったまま、歯を喰いしばり、身をかがめ、頻りに父親の手を振り離そうと争っている。若い医師は政枝が必死になって手当を拒み続けるので困り果てて、車夫に看護婦をつれて来るよう言いつけた。
「まあ、政枝さん、どうしたというの。しっかりしなくちゃ駄目じゃないの」
 隣町の婚家先から駈けつけて来た多可子は二階に昇るなり政枝の右肩を掴み、優しくゆすって叱った。不断優しい多可子が突然の驚きと、政枝を救いたい一心とで絞り出した癇高な鋭い声が、逆上した政枝の耳にも強く響いた。政枝は自分で自由にならないほど硬直した頸をやっと捻じ向けて、叔母の顔を恨めしそうに見上げた。それを見ると多可子は更に勢づいて、
「さあ、早く先生のお手当を受けるんです」
 とせき立てた。
 政枝の舌はもつれて硬ばっていた。
「どうせ癒らない病気――死なせて――邪魔しないで……」
 政枝はやっとこれだけ云うとまたしても父親の手から自分の左手首を引き離そうともがき始めた。多可子は政枝が自分の病気を死病だと思い決めている以上、それに逆らって説き伏せることは無理だと覚った。そして別な言葉でするどく叱った。
「たとえ癒らない病気に罹っても、生きられる限りは生きなければならないのですよ」
 不断、無口でおとなしかった政枝は却ってこの叱咤に対して別人のように反撥した。
「何故、生きなければならないの。そのわけを云って――。それが判るまで手当受けません」
 多可子はぐっと言葉に詰まった。でも、ぐずぐずしているうちに政枝の手首から多量の血が流れ出て仕舞う。多可子は焦った。
「ええ、理由がありますとも。でも、今はあんたが亢奮し過ぎてるから、あとで落ち着いたとき、ゆっくり話す、ね。だから手当だけを受けなさい」
 政枝はまだ不承知らしい顔をしていたが、「きっとですか」と多可子を瞠んで念を押した。そして間もなくぐったりして父親や医師のするままになり、やがて素直に体を横にされた。
 看護婦がゴム管で政枝の腕を緊めて血止めをすると、医師は急いで傷口の縫い合せにとりかかった。流石に痛…

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