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まど
作品ID50627
著者岡本 かの子
文字遣い新字新仮名
底本 「岡本かの子全集6」 ちくま文庫、筑摩書房
1993(平成5)年9月22日
入力者門田裕志
校正者石井一成
公開 / 更新2016-03-01 / 2015-12-24
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 女は、窓に向いて立っていた。身じろぎさえしない。頬には涙のあと。
「……ね。……思い返して呉れませんか。……もう一度。……。ね」
 男は、荷造りの手をまた止めた。
 女はうしろを向かなかった。女の帯の結び目を見上げていた男の眼から、大粒な涙が滴った。かすかな歔欷。
 女はまだうしろを向かなかった。女の涙の痕へまた新らしい涙の雫が重なった。
 男は立って行って、女の傍へ寄った。この十日程のなやみで、げっそり痩せた女の頬。男の顎もまた無慙に尖ってしまったのを女は見た。
 窓の外の樹々の若葉が、二人の顔や体に真青に反映した。
「駄目? え?」
 男の逞ましい手が、女の肩にやわらかく触った。女は、けわしい眼をした。
「幾度言ったって同じですわ」
 女は、けわしい眼を直ぐに瞑った。そして、男から少し顔をそむけた。新らしい涙がまた……。
「…………」
「…………」
 男はまた力なく、荷造りを始めた。

「××ちゃん」
 男は女の名を呼んだ。不用意に女は後を向いた。
 行李の前へしゃがんだまま、男は一抱えの書物を女に示した。
「もう、これを入れれば、すっかり荷造りが出来るんです、けど、も一度……」
 女は、男の抱えている書物をみつめた。女は、体ごと男の方を向いてしまった。
 男は書物を床の上に置いて立ち上った。そして、傍の椅子に腰かけた。今一つの椅子へ女を招んだ。女はだまってそれに掛けた。
 ピアノや、大きな書架や、古びたデスクや、壺が、男と女のまわりにあった。足下には、男の造った三つの行李と、最後に手がけていた蓋のしかけた行李が一つ。
 男は女の赤いスリッパの爪尖を見ながら言った。
「僕はどうしたって駄目なんです。こうやって荷造りなんかしたっても、あなたに離れて行くことなんか、とても出来ない」
「…………」
「ね、も一度、おもい返して呉れない。そして兄さんに僕を置いて下さるようにって、頼んで呉れない?」
「思い返すも返さないも……もう、いくら考え抜いて斯うなったんだか分りゃしないのに……」
 女の言葉は末が独白になった。
「そりゃそうだけれど、そりゃそうに違いないけれど……」
 男は唇を顫わせながら、女の顔を見た。女の唇も顫えている。
「それに、いくら考えたって、兄さんに言われたより本当のことは無いでしょう。わたし達には」
 二人で死ぬか、別れるか。どちらか一つを採れ。と女の兄は、いつものおだやかな顔に凜々しい色を見せてきっぱり言った。
 男と女の恋が女の兄に許されて、男が女の家に来て棲んでから三年になる。男は、多感なだけに多情だった。男のまれな美貌と才能に多くの女が慕い寄った。女を深く愛しながら、男は外の女をも退けかねた。男が二人目のほかの女を隠し持ったのが知れた時、女は発狂してしまった。女の体と心が無慙に苦しみ抜いた。
 三度目に、男がほかの女と交換していた手紙の…

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