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東西相触れて
とうざいあいふれて
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「新渡戸稲造論集」 岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日
初出「東西相触れて」1928(昭和3)年10月29日
入力者田中哲郎
校正者ゆうき
公開 / 更新2010-09-12 / 2014-09-21
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 あるいは東、あるいは西といえば如何にも両者の間に懸隔あるように聞ゆる。文章家はかくの如き文字を用いて相容れざる差を示す。かの有名な詩篇の内にも西と東の隔たる如く云々とある。この言に限らず総ての対照的文字は濫用され易い。近頃世間に用いらるる左傾右傾の如きもまた同じである。しかしこれらは何れも実在するものを指すのでなく、二者の関係を示すに過ぎない。東なくして西はない、西なくして東はない、右があればこそ左があり、左の存在は右を認むるようなもの。しかし少し高き見地より窺えば、何れも反対の観念を示すものでなくして、寧ろ両者の間に共通点あることを教うるものと思う。如何にも左傾右傾といえば右の指の尖端と左の指の尖端と、両極端を聯想せしめるけれども、この両極端とても、人間が両腕を拡げた時にこそ隔りの大なるを知るが、合掌したり両手の指を組む時は極端が相合う。また両腕を拡げた時にも、左右の腕は胴によりて結びつけられているではないか。胴があればこそ左右の区別が起る。思想に於て左傾と右傾とを区別するも、中庸があればこそ両者間に差別が起るのである。故に中道を歩むものから見れば、両者共に区別ある如くして区別がない、共に中庸を維持するものと見べきである。
 東西もまた然り、誰人も知るかのキップリング氏の「東は東、西は西、両者永遠に相逢うことなし」の一句を聞けば、前の詩篇の句の如く東西は全然反対の位地にあるものの如く聞ゆれども、そもそも東西を別つ標準は何にあるかと質せば、これ実に独断的のものにして、各自の立っているその場所を以て基点とする位なものである。地理学者が東西を論ずる時、何処を起算点となすか、決して未だ一定してはいない。ただ普通には倫敦の近郊グリーニッチを以て起算点とするが、それはこの村に天然に起算点とすべき物が備わっているためでもなく、天啓によりてこれを定めたわけでもない。たまたま此所に相当完備した天文台があったからかく定めたので、仏人はこの地を択んだことを喜ばないで、自国に便利なる場所を主張する。独逸人も寧ろ伯林を以て起算点としたいと論じ、米国人はワシントンその他何れにても相当に完備した自国の天文台の所在地を以てこれに当てんとしている。十五世紀の頃にはアレキサンダー法王が世界を二分して西は西班牙に与え、東は葡萄牙に分けた。しかしてその時の起算点はアゾーレス群島の近傍であった。かくの如く東西なる語は単に相対語であって、しかもこれを測る標準さえも確定していない有様である。まして東邦とか西国とかいうが如き区域を指すにはあまりに茫漠の言葉である。
 我々幼少時代に読んだ西遊記の如きは支那人が印度に旅行した記事であって、印度を西国といったのである。西洋人がこの表題を見たら理解に苦むであろう。元来関係語である以上、同じ国土を東の人は西と称し、西の者が東と称するは、猶太の例を以ても知らる。…

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