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教育家の教育
きょういくかのきょういく
作品ID50895
著者新渡戸 稲造
文字遣い新字新仮名
底本 「新渡戸稲造論集」 岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年5月16日
初出「帝国六大教育家」1907(明治40)年10月
入力者田中哲郎
校正者ゆうき
公開 / 更新2010-11-20 / 2014-09-21
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 今日は教育家の大会を御催しなされたに付きまして御招待に預り出席致しましたが、私は普通いわゆる教育家という方々の仲間入を致しましたのが昨年の暮でありまして、まだ十分に教育家たるの資格も具えておらずまたその心得も持ちませぬので、諸君の前に立って教育に関する意見を述べる期節にはまだ至りませぬ。然るにいわゆる教育界に身を投じましたに付いてはどういう心掛けをせねばならぬか、どういう責任があるか、また一体教育家なるものは如何なるものなるか、段々考えました。然るに未熟の考であって何にも未だ判断致しかねまするが、幸に今日は教育に経験のあられる、あるいは知識のあられる方々の御集合であるから、いささか未熟な考を述べて教を受けたいと思う。その教を受けたいというのが私の本意で此処に参ったのであります。
 就きましては題が教育家の教育、ちょっと題だけを御覧になりますと甚だ無礼に聞えましょうが、私自分が今日は教育家の一人になった積りであるから、私自身の教育は今後どうしようと考えたのである。付けては教育家の教育とは即ち私自分で今後どういう教育を我が身に施そうかと大きな声で自分を誡めるに当るので、もしこの中に無礼なことを言いましたならば、大きな声で自分を叱り付けるのであると思召あらんことを偏に希望致します。(喝采)
 一体私には教育家という文字がハッキリしないのです。どういう人を教育家と名付るか、世間では教育屋などという者があるやに聞いている。こういう人は学校を造って銭を儲け、あるいは卒業証書を売って自分の生計を営む、あるいは少しばかり覚えたことに勿体を付けてこれを他の一層未熟な人に売付けるのが教育屋であるということを度々聞きました。然るに教育家というものはそういう者ではあるまい。私の謂う教育家の定義第一教育の定義を広く取るか狭く取るかに依て定まると思う。そこで教育なるものを広い意味に取れば人類殊に人類の若い者、児童を養成する、彼らの身体なり精神なり知識なりの発達を助くるものが何物でも教育である。これを為す者は何者に限らず教育者、あるいは教育家と称する価値がある。そう広く取った日には宇宙にあるものは何事でも教育を授けないものはないので、菩提樹の下で坐禅を組まれた御釈迦様が彼の樹のために教を受けたかどうかは知りませぬが、とにかく菩提樹という樹が何か御釈迦様の悟道に入らるることを手伝をしたものと見えて、今日なお仏教に於てはこの木を有難いものとしている。果して彼の樹が御釈迦様に教育を授けたならば樹も教育家の一つである。また半夜何ということなく宇宙を観じて浩然の気を養うた孟子に取っては森羅万象悉く教育家であろう。またテニソンの如く、花を一つ取ってもしこの花の研究が出来、花、葉、根までスッカリ分ったならば宇宙の原理も悉く理解し得るであろうと歌うた如きは、即ちテニソンに取っては花が一つの教育家であっ…

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