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疑ひの教育
うたがいのきょういく
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「近代日本思想大系 9 丘浅次郎集」 筑摩書房
1974(昭和49)年9月20日
初出「教育研究」1912年(明治45年)7月
入力者矢野重藤
校正者y_toku
公開 / 更新2015-10-19 / 2015-09-01
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 我国維新以後の教育の進歩は実に目覚ましいもので、其中でも初等教育は他の程度の教育に比して、遙に優つて居るとは教育雑誌上で度々承り及ぶ所であるが、之は誠に悦ばしい次第である。然るに我らから見ると、今日の初等教育には一つ極めて大切なことを全く忘れて居るのではないかと思はれる点がある故、此所に聊か、其の大要を述べて見やう。
 現今の小学校で授ける課目は何れも教師が教へ聞かすことを其まゝに児童が信ずる仕組に成つて居る。修身のことは暫く措き、読本でも、地理でも、歴史でも、又は理科でも、書物に書いてあること、先生の話して聞かせることを其まま児童に信ぜしめる様な教授法を用ひて居る如くに見受ける。掛図、標本、器械などを教室に持ち出すことは有つても、之は、たゞ言葉で説明し足らざる所を補ふため、或は教へ聞かす事柄を実物で示すためであつて、詰まる所、児童をして聞いたことを信ぜしめるための方便物たるに過ぎぬ。また問答法によつて生徒に発言せしめることは有つても、実際は生徒の口を借りて教師の予期して居る答を云はせるのであるから、一種の八百長とも見做すべきもので、時間を費す割合には児童をして頭脳を自発的に活動せしめることが甚だ少ない。要するに今日の初等教育に於ては、生徒は聞かされて信ずるか若しくは聞かされ見せられて信ずるか、何れにしてもたゞ信ずる様にのみ養成せられて、疑うて掛かる心の働きを練るべき機会が少しも与へられてない。我らが、特に不足に感ずるのは、此の点である。



 凡そ文明の進歩は発明発見の漸々重なり行く結果であるが、発明発見は研究によつてのみ得られるものである。而して研究の始まりは先づ物に疑ひを抱くことより起るのである。ワットでもニウトンでも普通の人々が当然のこととして少しも疑はぬ様な尋常な事件に対して疑ひ掛けた故に、大発明を為し得たのであつて、若し物を疑ふ能力が無かつたならば、決して、発明発見は出来るものでなからう。一旦物に対して疑ひを起せば、之を解決せんがためには研究せずには居られず、研究の結果、疑問の解決を得れば、此所に一種云ひ難き愉快を感ずる。放つた矢が的に中つても、投げた球が覗うた所へ行つても、総べて思うたことが実現すれば、勝利の愉快を感ずるのは人間の天性であつて、少年雑誌の謎や考へ物を子供等が喜ぶのも皆この故であるが、況して自分の研究に依つて、他人の未だ解決し得なかつた疑問を解決し得た場合には、其の愉快も極めて大なるべきは云ふを待たぬ。此の種の愉快の味を覚え、此の愉快を追うて研究を一種の楽みとする人々が殖えれば、自然その中から必ず発明発見をする人も出て来る訳である故、自己の民族の文明を進めんとするには、初等教育に於て、已に物に疑ひ掛ける心の働きを養ひ育てることは極めて大切であらう。特に現今の我国の如き一等国と云ふ虚名のために他国の嫉みを受け、人種的の憎…

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