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ヒルベルト訪問記
ヒルベルトほうもんき
副題1932年10月8日,ゲッチンゲンに於て
せんきゅうひゃくさんじゅうにねんじゅうがつようか,ゲッチンゲンにおいて
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「近世数学史談」 岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年8月18日
初出「岩波講座 数学」1932(昭和7)年11月
入力者鈴木厚司
校正者田中哲郎
公開 / 更新2011-01-06 / 2014-09-21
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 S―君.
……………
 晩の7時15分少し前から Wilhelm Weber 町29番地の前の歩道を僕は行きつ戻りつしていました.星の見えたのは近日珍らしいが,秋風が冷こくなってリンデの落葉が二ひら三ひら散らばっているなどは誂向きの道具立です.
 其処で僕は或る Fr[#挿絵]ulein と rendez-vous があったのです.フロイラインというのは Prof. Dr. Emmy Noether 女史です!
 ヒルベルト先生を訪問するのに,僕一人では話が途切れたときに困るだろうというて,親切なNさんが同行してくれる約束なのです.
 Wilhelm Weber 町29番地.H先生のお宅も随分久しいものですねェ.昔ながらのささやかな――あれは「柴折戸」としておきたい.それから広くもないあの「前栽」.それはしかしながら三十年間に木立が茂って,李だか梨だか,暗くて分らないが,丁度季節ではあり,定めて老先生夫婦の食卓を賑わせていることでしょう.玄関は矢張り暗いが,勝手を知ったNさんは殆ど案内を乞わないで,「来ましたよ」の科白と取次ぎに出た女中とを跡に残して,さっさと例の客間へ僕を導きました.電話で言ってあったのでしょう,「承知していましたよ.よく来てくれたねエ」と言いつつH先生は直ぐ出て来られました.今年丁度七十歳のH先生は血色もよく,昔ながらの童顔に微笑を湛えていられます.四五年前に先生は難治の重病で,病名はラテン語で何とやら,聞いても忘れましたが肝臓の故障らしい,一時は殆ど絶望の状態に陥られました頃,丁度アメリカで新薬が発見されて,其の為に一命を取り留めたということです.しかし,その薬だけでは効験不確だから,毎日生肝を四半斤ずつ食っておられるそうです.それでも不治の病だから,若しもこの療法を中止するならば,生命は週を以って数うべきだというのです.これは君も既に御承知でしたね.唯々療法の効験が現われて,今年チューリヒのコングレスへ出掛けるほどの元気が出たのです.
 H先生は一昨年か,退職の後にも大学で毎週一回位ずつ,自由に講義をしているそうです.例の数学基礎論などでしょう.「この冬学期には未だ片附いていない事を全部やってしまおうと思ったがね,助手達が存外批判的(kritisch)でね――まあまあ無理をしないで,ぼつぼつやるより外はなかろう…… Formalismus(形式論)は重大だ.それは誰でも認めなくてはならない.しかしその Formalismus ばかりでは済ませない所があってね,そこに問題があるのだがね……」.くどくどと独り言のようにつぶやく老先生を見て,僕は暗涙を禁ずることを得ませんでした.
 数年前に僕は数学基礎論に関して通俗的の解説を述べた折に,H先生は一生の思出に凡てのホトトギスを鳴かせて見せるのだというようなことを書きました.それは勿論数学基…

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