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痴人と死と
ちじんとしと
作品ID50914
著者ホーフマンスタール フーゴー・フォン
翻訳者森 鴎外
文字遣い新字新仮名
底本 「於母影 冬の王 森鴎外全集12」 ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日
入力者門田裕志
校正者米田
公開 / 更新2010-09-06 / 2014-09-21
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

為事室。建築はアンピイル式。背景の右と左とに大いなる窓あり。真中に硝子の扉ありてバルコンに出づる口となりおる。バルコンよりは木の階段にて庭に降るるようなりおる。左には広き開き戸あり。右にも同じ戸ありて寝間に通じ、この分は緑の天鵞絨の垂布にて覆いあり。窓にそいて左の方に為事机あり。その手前に肱突の椅子あり。柱ある処には硝子の箱を据え付け、その中に骨董を陳列す。壁にそいて右の方にゴチック式の暗色の櫃あり。この櫃には木彫の装飾をなしあり。櫃の上に古風なる楽器数個あり。伊太利亜名家の画ける絵のほとんど真黒になりたるを掛けあり。壁の貼紙は明色、ほとんど白色にして隠起せる模様及金箔の装飾を施せり。
主人クラウヂオ。(独窓の傍に座しおる。夕陽。)夕陽の照す濡った空気に包まれて山々が輝いている。棚引いている白雲は、上の方に黄金色の縁を取って、その影は灰色に見えている。昔の画家が聖母を乗せる雲をあんな風にえがいたものだ。山の裾には雲の青い影が印せられている。山の影は広い谷間に充ちて、広野の草木の緑に灰色を帯びさせている。山の頂の夕焼は最後の光を見せている。あの広野を女神達が歩いていて、手足の疲れる代りには、尊い草を摘み取って来るのだが、それが何だか我身に近付いて来るように思われる。あの女神達は素足で野の花の香を踏んで行く朝風に目を覚し、野の蜜蜂と明るい熱い空気とに身の周囲を取り巻かれているのだ。自然はあれに使われて、あれが望からまた自然が湧く。疲れてもまた元に返る力の消長の中に暖かい幸福があるのだ。あれあれ、今黄金の珠がいざって遠い海の緑の波の中に沈んで行く。名残の光は遠方の樹々の上に瞬をしている。今赤い靄が立ち昇る。あの靄の輪廓に取り巻かれている辺には、大船に乗って風波を破って行く大胆な海国の民の住んでいる町々があるのだ。その船人はまだ船の櫓の掻き分けた事のない、沈黙の潮の上を船で渡るのだ。荒海の怒に逢うては、世の常の迷も苦も無くなってしまうであろう。己はいつもこんな風に遠方を見て感じているが、一転して近い処を見るというと、まあ、何たる殺風景な事だろう。何だかこの往来、この建物の周囲には、この世に生れてから味わずにしまった愉快や、泣かずに済んだ涙や、意味のないあこがれや、当の知れぬ恋なぞが、靄のようになって立ち籠めているようだ。(窓に立ち寄る。)何処の家でも今燈火を点けている。そうすると狭い壁と壁との間に迷や涙で包まれた陰気な世界が出来て、人の心はこの中に擒にせられてしまうのだ。あるいは幾人か集って遠い処に行っている一人を思ったり、あるいは誰か一人に憂き事があるというと、皆が寄って慰めるのだ。しかし己は慰めという事を、ついぞ経験した事がない。ほんに世の中の人々は、一寸した一言をいうては泣き合ったり、笑い合ったりするもので、己のように手の指から血を出して七重に釘付にせられた門…

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