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牧羊神
ぼくようしん
著者
翻訳者上田 敏
文字遣い旧字旧仮名
底本 「明治文學全集 31 上田敏集」 筑摩書房
1966(昭和41)年4月10日
初出「牧羊神」金尾文淵堂、1920(大正9)年10月5日
入力者阿部哲也
校正者川山隆
公開 / 更新2011-02-20 / 2014-09-21
長さの目安約 67 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

牧羊神

阜の上の森陰に直立ちて
牧羊の神パアン笙を吹く。

晝さがりの日暖かに、風も吹きやみぬ。
天青し、雲白し、野山影短き
音無の世に、たゞ笙の聲、
ちよう、りよう、ふりよう、
ひうやりやに、ひやるろ、
あら、よい、ふりよう、るり、
ひよう、ふりよう、
蘆笛の管の簧、
震ひ響きていづる音に、
神も昔をおもふらむ。
髯そゝげたる相好は、
翁さびたる咲まひがほ、
角さへみゆる額髮、
髮はらゝぎて、さばらかに、
風雅の心浮べたる
――耳も山羊、脚も山羊――
半獸の姿ぞなつかしき。

音の程らひの搖曳に、
憧れごゝち、夢に入るを
きけば昔の戀がたり、
「細谷川の丸木橋、
ふみかへしては、かへしては、
あの山みるにおもひだす、
わかき心のはやりぎに
森の女神のシュリンクス
追ひしその日の雄誥を。
岩の峽間の白樫の
枝かきわけてラウラ木や
ミュルトスの森すぎゆけば、
木蔦の蔓に絡まるゝ
山葡萄こそうるさけれ。
去年の落栗毬栗は
蹄の割に挾まれど、
君を思へば正體無しや、
岩角、木株、細流を
踏みしめ、飛びこえ、徒わたり、
雲の御髮や、白妙の
肌理こまやかの肉置の
肩を抱めむと喘ぎゆく。
やがてぞ谷は極まりて。
鳶尾草の濃紫
にほひすみれのしぼ鹿子、
春山祇の來て遊ぶ
泉のもとにつきぬれば
胸もとゞろに、かの君を
今こそ終に得てしかと
思ふ心のそらだのめ。
淺澤水の中島に
仆れてつかむ蘆の根よ。
あまりに物のはかなさに、
空手をしめて、よゝと泣く
吐息ためいきとめあへず、
愁ひ嘯くをりしもあれ、
ふしぎや、音のしみじみと、
うつろ蘆莖鳴りいでぬ、
蘆[#挿絵]響き鳴りいでぬ。
さては抱けるこの草は
君が心のやどり草、
戀は草、草は戀。
せめてはこれぞわが物と
笙にしつらひ、年來の
つもる思を口うつし
移して吹けば片岡に
夫呼ぶ雉子の雌鳥も、
胡桃に耽ける友鳥も、
原ににれがむ黄牛も、
牧に嘶く黒駒も、
埒にむれゐる小羊も、
聞惚れ、見惚れ、あこがれて、
蝉の連節のどやかに、
蜥蜴も石に眠るなる
世は寂寥の眞晝時、
蘆に變りしわが戀と
おのれも、いつか、ひとつなる
うつら心や、のんやほ、のんやほ、
常春藤のいつまでも
うれし愁にまぎれむと、
けふも日影の長閑さに、
心をこめて吹き吹けば、
つもる思も口うつし、
ああ蘆の笛、蘆の笙の笛」。

日はやゝに傾きて、遠里に
靄はたち、中空の温もりに、
草の香いや高き片岡、
夢薫り、現は匂ふ今、
眠眼の牧羊神、笙を吹きやみぬ。
森陰に音もなし。

村雨ははらゝほろ、
山梨の枝にかゝれば、
けんけんほろゝうつ
雉子の鳴く音に覺まされて、
磐床いづる牧羊の神パアン、
胸毛の露をはらひつゝ
延欠して仰ぎ見れば、
有無雲の中天を
ひとり寂しく鸛の鳥、
遠の柴山かけて飛ぶ。
かへりみすれば、川添の
根白柳を濡燕、
掠め飛び交ふ雨あがり、
今…

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