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哀しき父
かなしきちち
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「子をつれて」 岩波文庫、岩波書店
1952(昭和27)年10月5日
初出「奇蹟」1912(大正元)年8月
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-05-26 / 2014-09-16
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 彼はまたいつとなくだん/\と場末へ追ひ込まれてゐた。
 四月の末であつた。空にはもや/\と靄のやうな雲がつまつて、日光がチカ/\櫻の青葉に降りそゝいで、雀の子がヂユク/\啼きくさつてゐた。どこかで朝から晩まで地形ならしのヤートコセが始まつてゐた……。
 彼は疲れて、青い顏をして、眼色は病んだ獸のやうに鈍く光つてゐる。不眠の夜が續く。ぢつとしてゐても動悸がひどく感じられて鎭めようとすると、尚ほ襲はれたやうに激しくなつて行くのであつた。
 今度の下宿は、小官吏の後家さんでもあらうと思はれる四十五六の上さんが、ゐなか者の女中相手につましくやつてゐるのであつた。樹木の多い場末の、軒の低い平家建の薄暗くじめ/\した小さな家であつた。彼の所有物と云つては、夜具と、机と、何にもはひつてない桐の小箪笥だけである。桐の小箪笥だけが、彼の永い貧乏な生活の間に賣殘された、たつたひとつの哀しい思ひ出の物なのであつた。
 彼は剥げた一閑張の小机を、竹垣ごしに狹い通りに向いた窓際に据ゑた。その低い、朽つて白く黴の生えた窓庇とすれ/\に、育ちのわるい梧桐がひよろ/\と植つてゐる。そして黒い毛蟲がひとつ、毎日その幹をはひ下りたり、まだ延び切らない葉裏を歩いたりしてゐるのであつたが、孤獨な引込み勝な彼はいつかその毛蟲に注意させられるやうになつてゐた。そして常にこまかい物事に對しても、ある宿命的な暗示をおもふことに慣らされて居る彼には、その毛蟲の動靜で自然と天候の變化が豫想されるやうにも思はれて行くのであつた。
 孤獨な彼の生活はどこへ行つても變りなく、淋しく、なやましくあつた。そしてまた彼はひとりの哀しき父なのであつた。哀しき父――彼は斯う自分を呼んでゐる。

 彼にはこれから入梅へかけての間が、一年中での一番堪へ難い季節になつてゐた。彼は此頃の氣候の壓迫を輕くしよう爲めに、例年のやうに、午後からそこらを出歩くことにしようと思つた。けれども、それを續ける事はつらいことでもある。カーキ色の兵隊を載せた板橋火藥庫の汚ない自動車がガタ/\と亂暴な音を立てゝ續いて來るのに會ふこともあつた。吊臺の中の病人の延びた頭髮が眼に入ることもあつた。欅の若葉をそよがす軟い風、輝く空氣の波、ほしいまゝな小鳥の啼聲……しかし彼は、それらのものに慄へあがり、めまひを感じ、身うちをうづかせられる苦しさよりも、尚堪へ難く思はれることは町で金魚を見ねばならぬことであつた。
 金魚と子供とは、いつか彼には離して考へることの出來ないものになつてゐた。



 彼はまだ若いのであつた。けれども彼の子供は四つになつてゐるのである。そして遠い彼の郷里に、彼の年よつたひとりの母に護られて成長して居るのであつた。
 彼等は――彼と、子と、子の母との三人で――昨年の夏前までは郊外に小さな家を持つていつしよに棲んでゐたのである。世…

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