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兵隊の宿
へいたいのやど
作品ID51231
著者上司 小剣
文字遣い旧字旧仮名
底本 「鱧の皮」 岩波文庫、岩波書店
1952(昭和27)年11月5日
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-06-25 / 2014-09-16
長さの目安約 46 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 坂の上の、大きな松の樹のある村總代の家で、あるきを呼ぶ太鼓の音が、ドーン、ドーン、ドン/\/\/\/\と響いてゐたのは、ツイ先刻のことであつたが、あるきの猪之介は、今のツそりと店へ入つて來て、薄暗い臺所の方を覗き込みながら、ヒヨロ高い身體を棒杭のやうに土間の眞ん中に突ツ立てゝゐる。
 店には誰れもゐないで、大きな眞鍮の火鉢が、人々の手摺れで磨きあげられたやうに、縁のところをピカ/\光らして、人間ならば大胡坐をかいたといふ風に、ドツシリと疊を凹ましてゐる。
「猪のはん、何んぞ用だツか。」と、若女將のお光は、[#挿絵]物の香や酒の香の染み込んだらしい、醤油のやうな色をした竹格子の奧の板場から聲をかけた。
「あゝお光つあん、其處だツか。……お母んが留守で忙しおまツしやろ。」
 鼻をひこつかせるやうにして、猪之介は竹格子の間に白く浮き出してゐるお光の顏らしいものを、目脂の一杯に溜つた眼で見詰めた。
「お母アはんの居やはれへんとこへ、役場からあんなこというて來やはるよつて、ほんまに難儀や。」
 晝食の客に出した二人前の膳部の喰べ殼の半ば片付いた殘りを、丁ど下の川端の洗ひ場で莖漬けにする菜を洗ひ上げて來た下女に讓つて、お光は板場からクルリと臺所へ[#挿絵]はり、其處の岩乘な縁の廣い長火鉢の前に腰をかけた。
 一番ではあるが、際立つて小振りの丸髷に裏葉色の手絡をかけて、ジミな縞物の袷せのコブコブした黒繻子の襟の間から、白く細い頸筋が、引ツ張れば拔け出しさうなお女郎人形のやうに、優しく婀娜かしかつた。
 すらりとした撫で肩を一寸搖つて、青い襷を外してから、何心なく火鉢に手をやつて、赤味の勝つた細い比翼指輪の光る、華奢な指に握らせるには痛々しいと思はれるほどの、太い鐵作りの火箸を取り上げた。
 かういふ時にタバコを喫まぬのは、彼女の態度風采を調へる上の一つの大きな疵とも思はれた。襷を外してから、長火鉢の前で、輕く長煙管を取り上げて貰ひたいと思はれた。
「お前、タバコ呑んだら何うやな。キセロと煙草入れわしが一つ大阪で買うて來てやるがな。」
 二三年前に聟養子を離縁してから、お光の一身と一家とを引き受けて世話してゐる旦那は、よくこんなことを言つた。
 若い時にカメオだとかオールドゴールドとかいふやうな舶來タバコを吸つて、村の人々に感心さした旦那は、今でも敷島や朝日を吸はずに、金口の高いのをこれ見よがしに吸ひながら、お光にもタバコを喫めと口癖のやうに勸めてゐる。
「明後日郡參事會へ行くさかいな、大阪へ[#挿絵]はつて煙草入れ買うて來てやる。」なぞと切羽詰つたやうにいふ折もあつた。お光はさういふ時、タバコのことよりも、郡參事會なぞを鼻にかけて、土地の勢力家顏をする旦那の淺果敢な容子が、厭やでならなかつた。
 今は東京に住んで、三四年に一度づゝすら村へは歸つて來ない小池といふ畫…

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