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酔狂録
すいきょうろく
作品ID51239
著者吉井 勇
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻55 恋心」 作品社
1995(平成7)年9月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2011-01-01 / 2014-09-21
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 またしても恋物語である。しかしその物語の主人公は私ではない。
 それはもう今から七八年前の或る冬の夜のことであつた。私はその時分毎晩のやうに銀座界隈の酒場歩きをやつてゐたので、その夜ももうかなり遅く、尾張町の角のところにある、或る大きな、天井に近い高い壁から時時造りものの獅子が首を出して吼える仕掛けになつてゐるカフヱーで、頻にウヰスキーの杯を傾けてゐた。
 私もその晩かなり酔つてゐたがそこの酒場に集まつてゐる人達は一人として酔つてゐないものはなかつた。酒の匂ひや莨の煙がむつと噎せかへる位立ちこめてゐて、コツプの落ちて壊れる音やナイフやフオークの触れ合ふ響きが、酒に荒んだ人の心を、いやが上にも苛苛させるやうに聴こえて来た。家の中は暖炉が熾に燃えてゐるので、むしろ顔が火照る位熱かつたが、外は霙まじりの雨が振り頻つてゐるので、入口の硝子扉が開く度毎に、冷たい湿つた風が用捨なく吹き込んで来て、折角帰り懸けてゐる人の足を留めた。私も幾度か帰らうとしては、外の寒さを思ふと何となく逡巡はれて、また新しい杯を命じないではゐられないのだつた。
 この物語はこの夜図らずもこの酒場で出会つた或る青年――それが彫刻家であると云ふことは話を聴いてゐるうちに分つた――から聴いた話である。彼と私とは唯顔を知り合つてゐると云ふ位の交際しかなかつたのだが、その晩はひどく懐かしさうに私の傍に近寄つて来て、
「是非あなたに聴いて貰ひたい話があるんです。どうぞ今夜は僕の話を聴いてやつて下さい。」
と云つてから、ウヰスキーの壜を自分の前に持つて来させて、それを立てつづけに呷りながら話しはじめた。
みづからの胸の傷みを癒さむと飲む酒なればとがめたまふな
酔へばいつか夢まぼろしの国に来ぬこの国をかしながく住ままし
われ往かむかの獅子窟は酒ありて女もありて夢見るによし
窓の外の霙の音を聴きながらきけばかなしき恋がたりかな
洛陽の酒徒にまじりて或夜半は酔も身に染む恋がたり聴く

酔墨

 私が彼の女と始めて相見たのは或る年の正月のことであつた。
 その時私はまだ美術学校の学生時代だつたから、酒を飲んだりモデルの女の月旦位はしたけれども、紅灯緑酒の巷のことは、殆ど知らないと云つてもよかつた。それをその正月の或夜、酔狂を以て鳴つてゐる日本画家のKさんに伴はれて、大川端に近い旗亭に連れて往かれた。Kさんは私よりもずつと年が上で、その当時売り出しの流行児だつたから、さう云ふところの遊びでも、ひどく豪華を極めてゐて、その座敷にも殆ど入りきらない位の妓が来た。正月のことだから中にはもうしどけなく酔つた妓もあつて、私達は間もなく座敷一面に漂つてゐる酒の香と脂粉の匂ひとの中にあつた。
 私は暫くすると、殆ど正体もないと云つていい位酔つてしまつた。私の目の前には女の白い顔がちらつき、私の耳には艶めかしい女の声がとぎれ…

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