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或る日の小せん
あるひのこせん
作品ID51242
著者吉井 勇
文字遣い新字旧仮名
底本 「日本の名随筆 別巻29 落語」 作品社
1993(平成5)年7月25日
入力者門田裕志
校正者POKEPEEK2011
公開 / 更新2014-08-22 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 今は故人になつてしまつたが、私の知つてゐる落語家先代の柳家小せんは、足腰が立たず、目が見えなくなつてからも、釈台を前に置いて高座を勤め、昔からある落語にもいろいろ自分で工夫をして、「芸」に磨きをかけることを忘れなかつた。
 久保田万太郎、岡村柿紅、私などが肝煎となつて、「小せん会」と云ふものを作り、毎月一回何処かの寄席で独演会をやつてゐたが、幸ひにいつも大入だつたのは、要するに当人が芸に熱心だつたからなのであつた。
「五人廻し」「錦の袈裟」「子別れ」「とんちき」「高尾」「山崎屋」「突落し」「居残り佐平次」「磯の鮑」「お見立」「廓大学」「お茶汲」「羽織」「白銅」と云つたやうな廓話が得意で、かう云ふ落語になると足腰の立たない盲目の身でありながら、聴き手の心をぐんぐん引き付けてゆく、不思議な魅力を持つてゐるのだつた。芸の力と云つてしまへばそれまでだが、さうなるまでには一方ならぬ苦心が重ねられてゐたのであつて、およそ世の中の「芸」と称せられるものには、何処か頭の下がるやうな底光りが感じられるのは、切瑳琢磨と云つたやうな心の研きが、幾十度となくかかつてゐるからなのだらうか。
 小せんも落語には、いろいろ苦心をしてゐたが――或る日のことである。
「小せんさんゐるかい。」
 厩橋の直ぐ近くをちよつと曲つた、小せんの家の格子戸をがらりと開けて、声を懸けたのは岡村柿紅君。
「ああ、どうぞお上んなすつて下さい。」
 障子の中からさう云つて返事をしたのは、まさしく小せんで。
「やあ、稽古か。」
 上がると直ぐ茶の間で、瀬戸物の火鉢を中に、小せんと向ひ合つて坐つてゐるのは、近頃声色で売り出した小山三。見ると私はさう云つて、柿紅君と一緒に奥の座敷の方へ通つた。
「ちよつと失礼します。」
 と云つて、小せんが小山三に稽古をしてやつてゐるのは「高尾」の一節で、声色の冒頭として教へてやつてゐるらしい。
「ここまで話して置いて、それから声色にかかるんだ。いいかい。分つたかね。今度来るまでに幾度も自分でやつて見るがいいや」
 と云つてから稽古を終つた小せんは、女房のお時に助けられながら、私達のゐる座敷の方へ居ざつて来た。
「如何も失礼を致しました。上野の師匠(三代目小さん)に頼まれて、若い輩五六人に稽古をしてやつてゐるもんですから、近頃はこれで中々忙しいんです。」
「さうかい。そりやあ結構じやないか。」
「ええ、お陰様で皆さんが心配して下さるもんですから、こんな体になつても、如何にかかうにかやつてゆけます。」
 小せんはさう云つて、色の黒い面をちよつと伏せたが、暫くすると何か思ひ出したやうに顔を上げて、
「ねえ、岡村先生。あのう、白浪五人男の稲瀬川の勢揃ひの場で、それぞれツラネの台詞がありますね。あの中の忠信利平のは何とか云ひましたね。餓鬼の時から手癖が悪く――」
「抜け参りからぐれ出して。…

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