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とら
作品ID51291
著者久米 正雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「編年体大正文学全集 第七巻 大正七年」 ゆまに書房
2001(平成13)年5月25日
初出「文章世界 第十三巻第五号」1918(大正7)年5月1日
入力者H.YAM
校正者荒木恵一
公開 / 更新2015-07-22 / 2015-06-24
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 新派俳優の深井八輔は、例もの通り、正午近くになつて眼を覚した。戸外はもう晴れ切つた秋の日である。彼は寝足りた眼をわざとらしくしばたゝいて、障子の硝子越しに青い空を見やると、思ひ切つて一つ大きな伸びをした。が、ふと其動作が吾乍ら誇張めいてゐるのに気がつくと、平常舞台での大袈裟な表情が、此処まで食ひ込んでゐるやうな気がして、思はず四辺を見巡し乍ら苦笑した。彼は俳優の中でも、実に天成の誇張家であつた。そして其誇張が過ぎて道化た気分を醸す処に、彼の役処の全生命が在つた。彼は新派中での最も有名な三枚目役者だつた。
 彼はもと魚河岸の哥兄だつたが、持つて生れた剽軽な性質は、新派草創の祖たるオツペケペーの川上が、革新劇団の旗を上げて、その下廻りを募集した時、朋輩たちの嘲笑をも顧みず、真つ先きにそれに応募した。が、愈々その試験めいたものを受けた時、川上はつく/″\此の[#挿絵]栗頭の哥兄を見て、さて見縊つたやうにかう云つた。
「おまへさんは到底役者になる柄ではないね。」
 彼が凡ての言葉を尽したにも係らず、川上は笑つて受け附けなかつた。が彼はそれでも懲りなかつた。而して今度は頭をすつかり剃り円めて、人相を変へて再び募集に応じた。ところが恰度一座が多人数を要したので、彼も川上の眼を遁れ、人々に紛れてうまく採用されて了つたが、入つて了つてから、川上はすぐに彼に気が附いた。
「やあ、此奴とう/\入りやがつたな。」川上は幾分驚嘆の気味で彼に云つた。
「へん、どんなもんです。」と彼は剃つた頭を二つほど叩いて見せた。
「まあ仕方がない。入つたんなら慥りやれ。」と川上も笑ひ乍ら、それでも心中かう云ふ男の使ひ道がないでもないと思つて、快く入座を許さない訳には行かなかつた。かうして彼は俳優になる時から、既に既に[#「既に既に」はママ]立派な三枚目の役を勤めた。而して今では、新派興亡の幾変遷を経て、兎にも角にも由井の一座に、無くてはならぬ俳優となつた。給金も相応には取れる。役者らしく会には女も出来る。――思へば彼もうまい出世をしたものに相違なかつた。
 が、彼とても又、決して自分の今の地位に、満足してゐる訳ではなかつた。彼ももう三十五歳を越えてゐた。普常の職業に従事してゐるのなら、分別盛り働き盛りの年輩だつた。けれども今の儘の彼は、舞台で絶えず道化を演じてゐるに過ぎなかつた。真面目な役は一つも振られなかつた。彼は只、観客をわつと笑はす為にのみ、若くは浮き立たす為にのみ、配合的に用ゐられるばかりだつた。これでは手品師の介添に出る、戯奴に変らぬことを彼自身も知つてゐた。知つてゐたが仕方がなかつた。彼はいゝ年をして相変らず、大向うをわや/\笑はして、自らも己の境涯を笑つてゐた。
 彼にはもう八歳になる子があつた。そして其子は去年初舞台を踏んで、彼と同じく、否彼よりももつと正式な、新派俳優になる未来…

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