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チェーホフ序説
チェーホフじょせつ
副題――一つの反措定として――
――ひとつのはんそていとして――
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「カシタンカ・ねむい 他七篇」 岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年5月16日
初出「批評 第六十二号」1948(昭和23)年11月
入力者米田
校正者POKEPEEK2011
公開 / 更新2014-08-16 / 2014-09-16
長さの目安約 79 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 チェーホフは自伝というものが嫌いだった。――僕には自伝恐怖症という病気がある。自分のことがかれこれ書いてあるのを読んだり、ましてやそれを発表するために書くなどということは、僕には全くやりきれない。……そんな意味のことを、一八九九年の秋、つまり死ぬ五年ほど前に、同窓のドクトル・ロッソリモに書き送っている。
 これが単なるはにかみであるか、それともほかに何かわけがあるのか、その辺のことはあとで改めて考える機会があるだろう。けだしチェーホフという人間を見ていく場合、これは見のがすことのできぬ根本問題の一つだからである。それはとにかく、彼がそんな但書をつけてロッソリモに送った自伝というのは、おおよそ次のようなものである。(あらかじめお断わりしておくが、チェーホフの文章の飜訳は版権の関係から今日のわが国では許されていない。従って以下すべてチェーホフ及びその同時代人からの引用文は、大意を伝えるだけにとどまる。)
 ――私アントン・チェーホフは一八六〇年タガンローグに生まれた。一八七九年モスクワ大学の医学部に入学した。学部というものについてこれと云った深い考えはなく、どんな積りで医科を選んだものか覚えがないが、べつにこの選択を後悔しなかった。一年生の頃から週刊雑誌や新聞に書きはじめ、八〇年代の初めには既にこの仕事は職業的性格を帯びていた。一八八八年にプーシキン賞を得た。一八九〇年サガレン島へ赴き、流刑地および徒刑に関する一書を著わした。その日その日に書きなぐった雑文類を除き、私が文学生活二十年間に発表した小説は、印刷全紙にして三百台分を超える。ほかに戯曲も書いた。医学を学んだことが私の文学上の仕事に重大な影響を及ぼしたことは疑いない。それがどれほど私の観察をひろめ私の知識を豊かにしたかは、医者でなければ分るまい。……
 あとは医学の功能の礼讃になって、自然科学とか科学的メトードとかいうものが彼を慎重ならしめたこと、科学的なデータを常づね考慮に入れるべく努めたこと、それが不可能なときは筆を執らぬことにしたこと、自分は科学に対して否定的な態度をとる文学者には属しないこと、臨床方面では既に学生時代から郡会病院で働らき、そののち郡会医を勤めた経験もあること、などを述べている。簡潔をきわめたこの履歴書のうち、医学に関する記述が半ば以上を占めていることは、よしんばそれが医師互助会の需めに応じたものであったにしても、一応は注目すべきであると思う。けだしこれより十年ほど前にも、医学は正妻で文学は情婦だと、チェーホフは述べているからである。ついでにこの情婦性が、帝国学士院からプーシキン賞を与えられた頃のものであったことも、記憶しておいていいだろう。
 彼の言動や手紙に現われている限り、今しがた見たような臨床医家としての誇り、ひいては自然科学者としての矜持は、チェーホフの生活で意外に…

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