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グーセフ
グーセフ
作品ID51424
原題ГУСЕВ
著者チェーホフ アントン
翻訳者神西 清
文字遣い新字新仮名
底本 「チェーホフ全集 8」 中央公論社
1960(昭和35)年2月15日
入力者米田
校正者阿部哲也
公開 / 更新2010-10-10 / 2014-09-21
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 暗くなって来た、間もなく夜だ。
 無期帰休兵のグーセフが、釣床から半分起きあがって、小声で言う。
「ねえ、パーヴェル・イヴァーヌィチ。こんな事をスーチャン〔(蘇城、ウラジオの東方約百キロにある炭坑地)〕の兵隊が言ってたっけ。奴の乗ってた船に大きな魚が突き当って、船底をぶち抜いたってね。」
 話しかけられた素性の知れぬ男は、船の病室の皆からパーヴェル・イヴァーヌィチと呼ばれていたが、まるで聞えなかったように黙っている。
 そしてまた寂とする。……風が索具を鳴らし、スクリューが動悸を打ち、波がざざっとぶつかり、釣床がきしむ。が、これにはもうとっくに耳が慣れているので、あたりのものすべてが寐入って沈黙しているように思われる。退屈だ。一日じゅう骨牌をしていた三人の病人――その二人は兵卒で一人は水兵である――も、もう寐入って寐言をいっている。
 どうやら揺れて来たようだ。グーセフの背の下の釣床が、緩やかに上ったり下ったりする。まるで溜息でもしているようだ。――それが一度、二度、三度……。何か床にがちゃんとぶつかった。水差しが落ちたのだろう。
「風の奴め、いよいよ鎖から抜け出したぞ……」と、耳を澄ましてグーセフが言う。
 今度はパーヴェル・イヴァーヌィチが咳払いをして、いらいらした調子で返事をする。
「船が魚とぶつかると思えば、風が鎖から抜け出す。……鎖から抜け出すって、一体風は獣かってことよ。」
「正教徒はそんなふうに言うんですよ。」
「じゃ正教徒ってのは、お前も同然物を知らねえ。……勝手な熱ばかり吹きやがって、胸にこう手を当てて、考えてから言わなくちゃいけないねえ。お前さんはわからず屋だよ。」
 パーヴェル・イヴァーヌィチは船に弱い。船が揺れ出すときまって怒りっぽくなって、つまらぬことで当り散らす。だがグーセフの考えでは、腹を立てることなんか何一つありはしない。魚のことにしろ、鎖を抜け出た風のことにしろ、不思議でも奇妙でもなんでもない。山のように大きな魚で背中が[#挿絵]魚みたいに硬いとしたら。また、世界の涯に岩乗な石壁が立っていて、暴れ者の風達がその壁に鎖で繋いであるとしたら。……彼らが鎖から抜け出さないなら、どうしてあんなに海の上を狂い廻って、まるで犬みたいに身もがきするものか。鎖で繋いでないのなら、静かな時は一体どこにいるというのか。
 グーセフは、山のように大きな魚や、赤銹の出た太い鎖のことを長いあいだ考える。やがて退屈になって、生れ故郷のことを考えはじめる。極東で五年も兵隊勤めをして、今そこへ帰って行くのだ。雪で一杯になった、とても大きな池が眼に浮ぶ。……池の畔りに、高い煙突からもくもくと黒煙を吐く赤煉瓦の建物がある。これは陶器工場だ。池の向う岸には村がある。端から数えて五番目の構えから、兄のアレクセイが橇に乗って出て来る。その後ろには大きなフェル…

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