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詩人といふ者
しじんというもの
作品ID51493
著者草野 天平
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 草野天平全詩集」 彌生書房
1969(昭和44)年4月25日
初出「新潮」1952(昭和27)年8月号
入力者大久保ゆう
校正者Juki
公開 / 更新2010-10-27 / 2014-09-21
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 詩のやうなものをただ書きさへすれば、それでもう詩人だといふやうなことは絶対に云へない。志を持つ人、といふと少し固く道徳的な感じがするが、少くともその感じに非常に近い、或る充実して爽やかな気持を得るために歩く人、又は歩き得た人、これこそ間違のない真の詩人だといふ気がする。
 詩といふのは、この綺麗な道中の無言の姿であるか、或ひは真の一声であるべきで、それは寸分の隙間もないその物のやうな本当さでなければならない。恐らく純粋といふものはかうした道のその都度その都度の極つた気息といつたもので、只これしか無いといつた感じのものではないかと思ふ。然しこの極つた気息、つまり本当といふことは容易なことではない。心の一番底まで届き、そして出るといふことで、簡単な業ではないのである。それは一種崇高といつてもいい涙ぐましいほどの努め方をして始めて可能なのである。それは何に向つても構はない。ただ「泣くほど」なのである。この泣くといふことが詩で、その善し悪しはどの程度のことにどれだけ本気の気持で泣いたかといふ、その広さと深さと正直さによつてはつきり決まるのだ。これが心に通じ心を打ち心を爽やかにする。本当といふことは何物にも動かされない気持であり、それが本質に届きまた人の望む本質でもある。
 だからこの順でゆくと、後味の悪いものは一切詩ではないのだ。矛盾、対立、誇張、露骨、安易、卑下、傲慢、混乱等、かうしたものは詩ではない。それは不満足の心から起る人間の一状態で、嘘ではないけれども全き幸福を齎すものとは思はれない。
 昔、東洋と西洋は、或ひは一つのものだつたかも知れない。恐らくはさういふものだつたやうな気がする。この分裂は本当は詩ではないのだ。肉体と精神が別々になるといふことは成長の過程であつて、誰一人文句をいふことは出来ないが、然しこの矛盾は決していい気持のものではなく、いい気持でないからこそ詩ではないのだ。此処に一個人の場合と世界の場合の救はれない根源があるのである。詩人は、この分裂を身を以てもとに還す自然人でなければならないし、文化を正す智慧と確信を持つ者でなければならない。
 自分は、はつきり云ふけれども、日本の詩人の中に真に詩人らしい詩人がゐないやうに思へて仕方がない。どの詩を見ても、大抵或る時のフトした気持の情であり味であつて、極くうはべの、実に自分を甘やかした涙である。この程度のことに泣き、そして詩を感じるやうでは、如何に苦労してゐないかといふことがはつきり解る。一つの詩を公にする場合、当然しつかりとした責任を持つべきであらう。此の世に何を与へ、如何にしたいか、そして如何にすれば正しいか。その位のことは勿論考へていい筈である。やはり涙は、個々に流す涙と、全体の為に一切流さない涙、つまり体全体が、一種のうるほひとなつてゐるやうな智と愛の姿にならなければ嘘である。
 詩人は…

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