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国民性と文学
こくみんせいとぶんがく
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「現代日本文學大系 96 文藝評論集」 筑摩書房
1973(昭和48)年7月10日
入力者j.utiyama
校正者丹羽倫子
公開 / 更新1999-01-19 / 2014-09-17
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 今日の文学、就中小説に対する世間の要求の主なるものを挙ぐれば、現社会に密接して時事時潮を描けるといふもの其の一にして、国民性を描写して国民的性情の満足を与へよといふもの其の二なり。前者は姑く措く、後者の要求に対しては吾人頗る惑ふ。則ち問うて曰はく、国民性とは何ぞや、国民的性情の満足とは何ぞや、そも/\又此の要求に是認せらるべき点ありとせば、そは果して如何程の意味にて是認せらるべきかと。
 漫然国民性を描けといふ、而も其の意義其の根拠を繹ね来たれば頗る漠たるものあり。之れを解して、
 一、国民性の一部の影を描けとの義とすべきか、
 二、国民性の全部の影を描けとの義とすべきか、
 三、国民の美処もしくは美なる特質を描けとの義とすべきか、
 所謂国民性を描けとの要求にして以上の三解の外に出でずとせば、是等は果して如何なる意義を有するぞ。吾人をして少しく之れを[#挿絵]覈する所あらしめよ。
 試みに第一解に従はば如何。之れを描写せよと要求するまでもなく此の意味に於ての国民性は皆多少描きつゝありと言はざるべからざるにあらずや。描いて尽くさざる所あるは、(尚後に説くが如き他の一面の理由もあれど)、其の主観的なるが為め、もしくは其の抒情的なるが為めにあらずや。蓋し苟も我が国土に脚を托するものにして誰れか能く国民性の圏外に逸出するものあらんや。彼等は意識を役せずして皆国民性の一部を描くべきものにあらずや。如何ばかり主観的なる作家といふとも、作家自身にして籍を一国に有する限りは其詩材もしくは主題の何たるに拘らず、其の作の気脉は多少国民性に触れざらんと欲するも得べからざるにはあらざるか。作家にして日本国民たる限りは一種のコスモポリタンを取り、又は一外人を択びて其の詩材となすとも、全く国民性の形跡を脱却し得ざるは之れをゲーテが『イフイゲニア』の例に徴するも明かなるにあらずや。否シエークスピアの客観的なるだに尚且つ全く当代の英国民性を脱却し得ざりしにあらずや。されば此の意味にては、柳浪も、鏡花も、天外も、多少厚薄の度こそ異なれ、皆国民性を描きつゝありといふを事実とすべきにあらずや。吾人は国民性の一膜を被らざるの作家、随うて又さる意味の文学あることを信ずる能はず。要するに此の意味にての国民性を言ふは殆ど無意義なり、重語なり。吾人は寧ろ円満なる客観詩を得んと欲するの余りに、一時一処の国民性を擺脱せよと要求するの(其の要求の当否は別論として)之れを描けと要求するの殆ど無意味なる勝りて新意味あるを認めずばあらざる也。然らば
 第二解に従はば如何。国民性の一部の影を描けといふの空語たるは論なけれど、其の全部の影を描けと言ふの意となさば、おのづから一種の根拠あるに似たり。主観的なる今の作家に向つて国民性全躰の影を描破せよと言ふ、吾人は必しもこの要求を非とせず、唯[#挿絵]今の作物に国民性全躰…

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