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正に芸術の試煉期
まさにげいじゅつのしれんき
作品ID51781
著者小川 未明
文字遣い新字新仮名
底本 「芸術は生動す」 国文社
1982(昭和57)年3月30日
入力者Nana ohbe
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-01-26 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 今度の震災の災禍が、経済上にまた政治上に、影響し、従って複雑な関係を個人生活の上にも生じた点が少くない。その中に於て、文学業者の生活は、元来が、一面社会的であると共に、一面は、全く個人的のものであったと言うことができる。
 今日、私は、独り芸術とは限らないが、まず芸術に、それが危機にあると言い得るのは、その作者と立場との関係が、極めてデリケートに置かれているからである。
 要するに、作者の人格をおいてこの問題は他にないには違いない。けれど、その個人的であると社会的であるとは、一にその人の素質にもより、傾向にもあることであって、これによって、直に人格について批評されないものもあるが、また一面から言えばその立場を明かにすることによってます/\その作家の素質と、作品の価値を定むることにもなるのである。
 芸術の目的が人間の理想の追求であり、そして、この芸術的感激が現実に対する不充、反抗に他ならんとしたら、そこに、妥協されない何ものかゞなくてはならぬ。
 社会的であること、言い換えれば人生的であること、個人的であることゝは、その目的に対する信念の相違であり、芸術をいかに見るかという、その作家の態度であり更に進めて言えば私は、これを良心の如何に帰するのである。
 全く社会的であって、個人的であらぬものはないと言える如く、いかなる個人的であっても、全く社会的の要素のふくまれていないものはないとも言えるだろう。それ程、文筆に従事する者は、常にその時の調子一つで、その何れにもあり得るのだ。世間に妥協するも究極は功利に終始するも、蓋し表現の上では、どんなことも書けると言うのである。
 ある者は、世間を詐わり、また自己をも詐わるのだ。真剣であるならば、その態度に対して、第三者は、いさゝかの疑念をも挾むことができないだろう。即ち、作家の態度が第一義に即しているならば、――独り作家に限らない、すべての思想家がまた、――それは、粛殺な気にみち、理想を追求し、信念に燃えているのである。この種のものに対して、私は、芸術が人生的であり真に社会的意義を有することを否定できない。
 狡猾なる徒は、巧に良心をも詐わるであろう。そして、第一義の献身的、教化的精神に立つことを回避する。それには、困苦と闘争が予想されるからだ。芸術の権威は、彼等によって、すでに軟化される。そして、表現されたものは芸術本来の姿ではなくして、畢竟自己の趣味化された技巧の芸術となって、第一義の精神からは、変形された玩賞的芸術に他ならないのだ。
 詩人や、芸術家が、真に、真理の愛求者である、美の讃美者であるなら、そうあることによって、はじめて、その存在が、この社会に、意義があるのでなかろうか。真理の真相は、死を見ることかも知れないが、科学者が真理の前に、決して妥協しないが如く、宗教家が人間愛のためには、何ものをも怖れてはなら…

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