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作家としての問題
さっかとしてのもんだい
作品ID51800
著者小川 未明
文字遣い新字新仮名
底本 「芸術は生動す」 国文社
1982(昭和57)年3月30日
入力者Nana ohbe
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-01-17 / 2014-09-16
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 もし、その作家が、真実であるならば、どんな小さなものでも、また、どんな力ないものでも、これを無視しようとは思わないでありましょう。
 個人は、集団に属するのが本当だというようなことから、なんでも、集団的に、階級的に見ようとするのは、この人生は、常に、唯物的に闘争しつゝあるという見解のもとに、疑いを抱かない、肯定的な議論であります。社会科学としては、それも重きをなす学説にちがいありません。そして、それを信ずることは、その人の勝手です。しかし、芸術には、その他の場合があるばかりでなく、芸術本来の精神は、もっと自由なものであり、その自由の教化に於てこそ存在の理由があるのだと思います。
 政治に於ては、党派によって、敵味方に分れていますが、芸術は、そんな不自由なものでない。自から不自由の中に軌範の立ち籠って、政治の前衛をもって任ずるものは、自から異いますが、なるべく、多くの異彩ある作家が輩出して、都会を、農村をいろ/\の眼で見、描写しなければならぬと思います。
 作家は、何ものにも囚われてはなりません。もし、囚われた時は、自由人でありません。さなきだに、今の作家は容易に自由人たることを許されていない。芸術家が、精神の自由を得なかった時は、もう死んだも同じようなものです。
 この故に、芸術家たり、作家たることは容易でありません。たとえ学説や主義に囚われなくとも、資本主義の重圧に堪えることは、より以上に困難な時代であるからです。
 いまこゝでは、資本家等の経営する職業雑誌が、大衆向きというスローガンを掲げることの誤謬であり、また、この時代に追従しなければならぬ作家等が、資本家の意志を迎えて、いつしか真の芸術を忘れるに至ったことを指摘しようと思います。
 先ず、芸術は、真の教化でなければならないことです。真実にものを見た作家の叫びでなければならないことです。実に、その芸術が、かゝる真実の表現であったら必ずや、その聞こうとするものがあるを当然とします。もし、芸術が真の発見であり、創意であり、作家の熱烈なる要求であることの代りに、通俗への合流に過ぎぬとしたら、何の教化ということもないでありましょう。
 芸術は、凡俗生活に対する反抗からはじまったと見るべきが本当であります。今日の文化が、兎も角もこゝまで至ったのには、この向上生活のいたした集積ともいうべきです。政治に依る強権は、一夜にして、社会の組織を一新することができるでありましょう。しかし、一夜に人間を改造することはできない。人間を改造するものは、良心の陶冶に依るものです。芸術の使命が、宗教や、教育と、相俟ってこゝに目的を有するのは言うまでもないことです。
 一人の心から、他の心へ、一人の良心から、他の良心へと波動を打って、民衆の中にはいって行くものが、真の芸術です。そこに、精神の自由の下に、人格の改善が行われます。彼等は…

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