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常に自然は語る
つねにしぜんはかたる
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「芸術は生動す」 国文社
1982(昭和57)年3月30日
入力者Nana ohbe
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-01-20 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 天心に湧く雲程、不思議なものはない。
 自分は、雲を見るのが、大好きだ。そして、それは、独り私ばかりでなく、誰でも感ずることであろうが、いまだ曾て、雲の形態について、何人も、これをあらかじめ知り得るものがないということだ。
 時に、流れて、帯のように細くなり、そして、いつしか煙のように消えて、始めの形すらあとにとゞめない。時に、重々として、厚さを加え、やがては、奇怪な山嶽のように雄偉な姿を大空に擡げて、下界を俯瞰する。しからざれば陰惨な光景を呈して灰白色となり、暗黒色となり、雷鳴を起し、電光を発し、風を呼び、雨をみなぎらせるのであるが、そのはじめに於て、千変万化の行動に関して、吾人のはかり知ることを許さないのが雲である。
 神出鬼没の雲の動作程、美と不可知の力を蔵するものは他にあるまい。しかし、たゞ、それは、自然の意志の反映なのである。即ち、自然なるが故に、自由なのである。言い換えれば自然は、自由そのものであるからだ。
 雲に思いを寄せ、追懐と讃美を恣にしたものは、いくばくの放浪者や、ロマンチストだけではなかった。シェレーや、ボードレールや、レヴィートフのような、詩人だけではなかったのである。
 さらに、私は、雲に対して、驚異を感ずるのだった。いかにして、あの鏡の如き空に、生ずるかを。その始めは、一片の[#挿絵]毛の飛ぶに似たるものが、一瞬の後に、至大な勢力となり、さらに、一瞬の後には、ついに満天を掩いつくすを珍らしとしない。小なるものが次第に成長して、大きくなるのには、理由の存するとして、敢て、不思議とは考えないが、いかにして、その始め、一点の雲を生ずるかについてである。
 思え、熾烈無比の太陽は、何ものをも焼きつくさんとしているではないか。ために大地は熱し、石は焼け、瓦は火を発せんばかりとなり、そして、河水は渇れ、生命あるもの、なべてうなだれて見えるのに、一抹の微小なる雲が、しかも太陽直下の大空に生れて成長するのを、私は不思議とせずにいられないのだ。
 社会について考えるものは、空の現象は、即ち、これ社会に於ける、すべてのものの象徴であるとは考えまいか? 尚それに近き例を、芸術の上に取ることも出来る。
 作家は、空想する自由を有している。空想は、ちょうど雲のようなものだ。はじめは、形の定らない、影のごときものであった。しかし空想は、想像となり、想像は、思想にまで進展し、やがて、それは内部的な一切の衝動のあらわれとなって、外面に向って迫撃する。これは、外的条件が、内的の力を決定するのでない。
 こゝに、自由の生む、形態の面白さがあり、押えることのできない強さがあり、爆破があり、また喜びがあるのである。自然の条件に従って、発生し、醗酵するものゝみが、最も創意に富んだ形を未来に決定するのである。それ故に、機械主義的な構成に、また強権主義的な指導に、真の創造は…

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