えあ草紙・青空図書館 - 作品カード


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街を行くまゝに感ず
まちをいくままにかんず
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「芸術は生動す」 国文社
1982(昭和57)年3月30日
入力者Nana ohbe
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-01-26 / 2014-09-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 たま/\書斎から、歩を街頭に移すと、いまさら、都会の活動に驚かされるのであります。こちらの側から、あちらの側に行くことすら、容易ならざる冒険であって時には、自分に不可能であると感じさせる程、自動車や、自転車や電車がしっきりなしに相ついで、往来しているのであります。
 これを見るものは、誰しも、大都会に対して、その偉なる外観に歎賞の声を発せぬものはなかろうと思います。しかし、私は、この時、すぐに、次のような疑いの生ずるのを何うすることもできない。「何が、こんなに忙しいのか。こんなに忙しそうに、みんなが動かなければならない必然の理由は、何であろう……」
 私は、みんなが、忙しそうに動かなければならぬ、その仕事に対して、その仕事の目的に対して、いかなる自覚を持ち、その上で動いているか、否かを疑わずにはいられなかったのです。
 たいして、急がなければならぬことでないのに、彼等は自動車に乗り、また、出なくて家にいてもいゝのに、外へ出たり、また、それ程、物資に欠乏していないのにかゝわらず、物資をその上にも輸送し、輸入するために、トラックを走らせたり、すべてが、必然に迫っていないにかゝわらず、一刻を争ったりしているように、その多くが、いたずらに、動き、消費しつゝあるのではないかというような疑問が感ぜられるのです。もし、個人的に、社会的に、合理的に動きつゝあるなら、そして、かくの如く、必然に向って、働きつゝあるなら、この社会は、いまゝでにも、もっとより善く、より正しくならなければならぬと感じられるからです。
 けれど、私達は、いかに、かく都会に喧騒を極めても、このまゝであったら、決して、私達の生活は、光明を望むものでないことをむしろ痛感せざるを得ないのは、なぜでしょうか。
 それは暫く措き、都会がいたずらに発達するということも、中央集権的であるということも、従って都会人は、ようやく此生活から離れて行くがために、いよ/\変則的な生活を営むということも、また中央集権的なるが故に、文化がこゝのみに発達して、都会人の生活は、問題にされるが辺土の生活は顧みられないということも、所謂、社会政策というものは、いかなるものかということも、さまざまに考えられるのでした。
 私達は、子供の時分を田舎に過した。しかし、多年、其の土地を離れているうちに、いつしかその時分の生活がどんなようなものであったかを忘れるに至った。これは、すべて都会に住む人々の多くがそうであると思われるのです。
 田舎の人達は、どんなにして働いたか、西瓜を作り、南瓜を作り、茄子を作り、芋を作るのに、どんなに汗水を滴らして働いたか。
 また、林檎を栽培し、蜜柑、梨子、柿を完全に成熟さして、それを摘むまでに、どれ程の労力を費したか。彼等は、この辛苦の生産品を市場にまで送らなければならないのです。
 都会人のある者は、彼等の辛苦…

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