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読むうちに思ったこと
よむうちにおもったこと
作品ID51817
著者小川 未明
文字遣い新字新仮名
底本 「芸術は生動す」 国文社
1982(昭和57)年3月30日
入力者Nana ohbe
校正者仙酔ゑびす
公開 / 更新2012-01-26 / 2014-09-16
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 絵のように美しいという言葉はあるが、いゝ絵は、見れば、見る程、ひきつけられるように感ずるものです。風景にしろ、人物にしろ、無駄に描かれた線はなく、どの部分を見ても生動するものですが、そういう絵は、よ程いゝ筆者を待たなければなりません。
 しかし、尽せぬ滋味を汲むことには、絵も文章もかわりがないのです。むしろ、文章の方が、より多く想像を要するだけ、惹きつける力も、より深い場合があるといえます。
 たとえば、レマルクの、「その後に来るもの」の中にも、ところ/″\、一幅の絵として見るに足る叙景があったと記憶します。水溜りにうつった空の景色や、柔らかな畠の土の色などを、そのまゝ、手に触れるように書かれているというよりは、描かれているように思いました。私は、その筆致に、どこやらヂッケンスを偲びましたが、ヂッケンスの自然描写にも、遙かに、絵にまさるものがあったように思います。それは文字であらわす方が、時間的にも、生動する姿を捉え得るためです。
 しかし、この種の味のあるものとしては、レムブランドの風景画であります。かゝる天才の画に至ってはまた物語りの領域にはいる程の魔力を有しています。それであるから、一概に、絵と文章といずれがまさるかなどといわれないが、文字の表現がいかに人の想像に訴えて、ほしいままに空間に形を描き、声なき声を発し、色なきに、紅紫絢爛[#「紅紫絢爛」は底本では「紅紫絢瀾」]、さま/″\な色彩を点ずるかゞ知られるのであります。
 学生時代に、その講義を聴いた小泉八雲氏は、稀代な名文家として知られていますが、たとえば、夏の夜の描写になると、殆んど、熱した空気が、肌に触れるようにまた、氏の好めるやさしい女性が、さゝやく時には、その息が、自分の顔にまで、かゝるようにさえ感じられたのであります。これなどは、容易に、絵では描きあらわされない境地であろうと思います。
 また、文は、その人為を現わすといわれています。その人の感情、感想から生れたものが、その人の文章であるかぎり、人格を現わすに不思議がないのでありましょう。故に、文章を読むことは、即ち、その人間に接することです。文品の高い、低いは、即ち、人品の高い、低いに他ありません。
 作為なく、詐りなくして、表現されたものが、即ちその人の真の文章であります。しかしながら、たとえ作為を用いても、また、詐ろうとしても、そうした文章には、自然なところがないから、ほんとうのものでないということが分るものです。
 自分をいつわらないのが、ほんとうにその人の文章です。自然たらざらんと欲しても、畢竟、自然に趣くもので、自分をいつわることはできぬものです。文品の高い、低いにかゝわらず、はじめより自己をいつわらぬ自然の表現は、その文章を読む時に快いものであり、面白味を覚えるものです。自己をいつわった文章というものは、不自然であり、どこ…

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