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ぶらんこ(一幕)
ぶらんこ(ひとまく) |
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作品ID | 52086 |
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著者 | 岸田 国士 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「岸田國士全集1」 岩波書店 1989(平成元)年11月8日 |
初出 | 「演劇新潮 第二年第三号」1925(大正14)年4月1日 |
入力者 | kompass |
校正者 | 門田裕志 |
公開 / 更新 | 2012-01-25 / 2016-04-13 |
長さの目安 | 約 13 ページ(500字/頁で計算) |
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夫
妻
夫の同僚
茶の間 朝
妻 (チヤブ台の上に食器を並べながら)あなた、さ、もう起きて下さい。
夫 (奥より)起きてるよ。一体何時だい。
妻 毎朝、わかつてるぢやありませんか。
夫 そんな時間か。
妻 いやね、どんな時間だと思つてらつしやるの。
夫 (跳ね起きるらしく)さうか。(間)カマキリは、まだ来ないだらう。
妻 (あたりに気を兼ね)およしなさいよ、そんな大きな声で…………。
夫 (現はれる)昨夜はね、素敵もなく面白い夢を見たよ。
妻 (相手にならずに)歯磨のチユーブが破れてるから、気をつけて頂戴。
夫 (台所へ行きながら)鼠は出なかつたかい、昨夜は。
妻 (相変らず膳の上に気を取られて)あなた、昨日の朝、何処へお置きになつたの。昨夕お湯へはいらつしやらなかつたし……。
夫 (楊子を使ひながら)今日は、一つ、風呂へはいるかな。
妻 もう駄目ね、一昨日の牛蒡は……。
夫 さあ……。おれも、今迄、いろんな夢を見たが、これくらゐ不思議な夢を見たことがない。
(間)
実に愉快な夢なんだ。
妻 手拭はあつたの。
夫 あつた。
夢だからつて馬鹿にはできない。
おれが、かう云ふと、お前はすぐに、夢があてになるもんですかと来る。
それや、夢で金持ちになつたからつて、何も、ほんとに、金持ちになると限つちやゐないさ。
そんなことを、あてにする馬鹿があるもんか。
(間)
夢は、どこまでも夢さ。
それでいいんだ。
ところで、夢といふやつは、空想とは、また違ふんだ。
夢は、やつぱり、一生のうちで、実際に在つたことなんだ。
眠つてゐる間に、ちやんと起つたことなんだ。
妻 葱が煮え過ぎても知りませんよ。
夫 葱……今日は、葱の汁か……。
さうか。
(顔を洗ふ音。やがて、手拭で顔を拭きながら現はる。
妻は、入れ違ひに、台所から釜を提げて来る)
妻 お櫃をもう一つ買ふのね。
夫 (手拭を釘に掛け、長火鉢の前にすわり)煙草を一つぷく喫ひたいな。
妻 いいわ、時計と相談してね。
夫 (煙草に火をつけながら)まだ大丈夫。(外を見るやうにして)好い天気だな。
(間)
つまり、夢に対するおれの興味は、夢そのものの面白さに在るんだ。
妻 (飯をよそふ)
夫 夢は、おれを退屈さから救つてくれる。
夢は、おれに、人生の木陰を教へてくれる。
妻 (汁をつける)
夫 昨日と今日……今日と明日……その間に、おれは金のかからない旅をする。
楽しい旅だ。
おれに取つて、夢は、現実の一部なんだ。
希望だとか、理想だとか……そんな空虚なもんぢやない。
妻 (箸を取り上げ)あなたは、よくさう、夢が見られるのね。
夫 羨ましいか。そこで、昨夜の夢だが……(箸を取る)
妻 その前に、此の間の出張手当を、早く取つて来て頂戴。
夫 あ、さうさう。九円七十銭……