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いわし
作品ID52197
著者岩本 素白
文字遣い新字新仮名
底本 「日本の名随筆32 魚」 作品社
1985(昭和60)年6月25日
入力者門田裕志
校正者noriko saito
公開 / 更新2012-01-03 / 2014-09-16
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 越生と書いておごせという。埼玉も西の方の、山へ寄った小さな町である。近くに梅の名所があるので、近年は人も知って新月ヶ瀬などというが、それ程の所でもない。然し梅の咲く頃、坂戸の町からバスで越生の方へ向いて行くと、先ず秩父の方の連山が濃い紫にくっきりと見える。町へはいって板葺の低い家並みの後ろに、裸木の雑木山が、風の無いぽか/\日に照らされて居るのを見ると、如何にも早春らしい気がする。
 町のはずれの越辺川というのに小さい橋が架って居て、それを渡ると、弘法山という小さい山がある。春もいくらか深くなって、そこの紅梅がむせるように匂う頃、寺の上の明るい雑木山に転がって居ると、鳥がチチと暗き、日は燦々とふりそそぐ。人のぞろ/\行く梅園そのものより、此処の方が遥かに暢んびりとして居る。ここから人も余り通らない村道を玉川村という方へ向いて行く道傍には、大きな枝垂れの紅梅などがあって面白いのである。
 弘法山の方へ行かずに、橋手前の道を左へ曲って、水の狭い、多少石などある川沿いの道が梅園への道である。もう其の道にはちらほら梅があって、趣を添えて居る。道傍の万屋の、下駄も小ぎれも瀬戸物も売って居るような軒先にも二三本梅があって、その疎らな白い花が澄んだ青空の下にくっきり映えて居る。その花の下に新しい木の箱を置いて、中に鰯の鱗の青々と光って居るのが眼に留った。早春の日の下の白い梅の花と、鰯の背の青い光。
 ある師匠のところで、継ぎ笛の竹の、その継ぎ手の所に蒔絵をするのが流行ったことがあった。それは弟子のうちに、その方の職の人があってのことでもあるが、われも俺もと皆が頼んだなかに、梅に雀を配した蒔絵をしてきたのを、頼んだ人が鶯じゃないんですね、と訝しそうな顔をした。すると年老いた師匠が、鶯でないところが面白いんですよ、と言ったのは、必ずしも遊芸の師匠の如才ないところから、そう云ったのでもあるまい。やはり芸ごとをやって暮して来た程の人で、幾らかこういう事も、普通の人とは違った見方が出来るのかと思ったのは、私のまだ年少の頃の事であった。酒ばかり飲んで居て、芸はだいぶ荒んで居た老人ではあったが――
 鶯でなく、雀を梅に配したのも面白いが、これは又飛び離れた鰯である。然し私は、その早春の日に青く光る鰯を、白い梅の花の下に暫く眺めて居た。



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