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倭女王卑弥呼考
わのじょおうひみここう
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「白鳥庫吉全集 第一卷 日本上代史研究 上」 岩波書店
1969(昭和44)年12月8日
初出「東亞之光 第五卷第六・七號」1910(明治43)年6、7月
入力者しだひろし
校正者岩澤秀紀
公開 / 更新2012-11-28 / 2014-09-16
長さの目安約 61 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 倭人の名は『山海經』・『漢書』・『論衡』等の古書に散見すれども、其記事何れも簡單にして、之に因りては未だ上代に於ける倭國の状態を窺ふに足らず。然るに獨り『魏志』の倭人傳に至りては、倭國の事を敍すること頗る詳密にして、而も傳中の主人公たる卑彌呼女王の人物は、赫灼として紙上に輝き、讀者をして恰も暗黒の裡に光明を認むるが如き感あらしむ。『魏志』は晉の陳壽の編纂に成れりと雖も、其東夷傳は主として魏の魚豢の著作『魏略』に據り、殊に倭人傳に載せたる事實は、當代の人が實際に目に睹、耳に聞ける所を記述せしもの多ければ、史料として最も尊重すべきものなり。本朝には『古事記』・『日本書紀』の二書備はりて上代の事蹟を傳へたりと雖も、漢魏時代に當る頃は固より口碑傳説によりて、幽にその状況を彷彿するに過ぎざるを思へば、當時支那人が我國に渡りて、親しく目撃したる事實を傳へたる『魏志』の倭人傳の如きは、實に我國の太古史上に一大光明を與ふる者と謂ふべし。『魏志』の國史に與ふる價値已に此の如くなるを以て、古來本邦の學者にして倭人傳の解釋に勢力を傾注したる者亦尠からざりき。然るに文中記す所の里程及日程に分明を缺く處あるに因り、傳中の主眼たる卑彌呼及其居城邪馬臺等の考定に就きて異議百出し、今日に至るまで史上の難問題と稱せらる。されば後進の學者は卑彌呼の事蹟に就きて殆ど適從する所を知らず、爲めに國史を著はすもの、此の貴重なる史料を徒に高閣に束ねて、參考に供せざる傾向あり。是れ豈に史界の一大恨事にあらずや。余輩は常に之を遺憾とし、聊か亦此問題につきて考究する所ありしが、今年の初に至り、漸くにして新解釋を得たるを以て、二月二十一日日本學會に於て論旨の大要を講述して、會員の批評を仰ぎたり。而して本論は即ち當時の講演を増補改訂せしものなり。若しも此論文が卑彌呼に對する史界の注意を喚起し、此難問題に關して學者の新研究が、陸續發表せらるるに至らば、望外の幸なり。
 卑彌呼問題の難點は、全く魏の帶方郡より女王の都邪馬臺に至る道程の解釋に存ずるが故に、余輩は茲に『魏志』に載する行程の全文を拔載し、而して後逐次にその解釋を試みんとす。
從郡至倭、循海岸、水行歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始渡一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶島方可四百餘里、土地山險多深林、道路如禽鹿徑、有千餘戸、無良田、食海物自活、乘船南北市糴、又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離、方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴、又渡一海千餘里、至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人、好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之、東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚、有千餘戸、世有王、皆統屬女王國、郡使往來常所駐、東南至奴國百里、官曰[#挿絵]馬…

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