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雀が森の怪異
すずめがもりのかいい
作品ID52261
著者田中 貢太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」 国書刊行会
1995(平成7)年8月2日
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2012-07-20 / 2014-09-16
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 明治――年六月末の某夜、彼は夜のふけるのも忘れてノートと首っぴきしていた。彼は岐阜市の隣接になった某町の豪農の伜で、名もわかっているがすこし憚るところがあるので、彼と云う代名詞を用いることにする。彼は高等学校の学生で、その時は学期試験であった。
 そこは仙台市の場末の町であった。寒い東北地方でも六月の末はかなり気温がのぼっていた。彼はセル一枚になっていた。夕方まで庭前の楓の青葉を吹きなびけていた西風がぴったりないで静かな晩であった。素人下宿の二階の一室になった室の中には、洋燈の石油の泡のような匂いがあって、それがノートのページを繰るたびにそそりと動くのであった。
(臭いな、障子をあけてみたら)
 彼は石油の匂いが鼻にしみるたびに外気を入れたらと思ったが、すぐその考えはノートの方へ往って、石油の匂いのことは忘れるのであった。彼には時として匂って来る石油に対する厭わしさと、漠としている記憶をノートの文字によって引締める意識以外に自己も時の観念もなかった。そうして狭く小さくなった彼の意識の中へ微な跫音が入って来た。それは二階の梯子段をあがって来ているような微な微な跫音であった。
(下の主人か、お媽さんかがあがって来たな)
 と、彼は思った。友人なれば入口の障子をがたぴしあけて――君はいますかと大きな声を立ててからあがって来るはずであった。下の主人夫婦にしてもすこし荒い跫音であった。彼はふときき耳をたてた。微な跫音はもう梯子段をあがり切ったのかちょっと聞えなくなった。
(何人だろう)
 彼がそう思ったとたんに廊下の障子がすうと開いて、白い衣服を着た者が入って来た。気温が高いと云っても、六月の末ではまだ浴衣を着るには早過ぎるのであった。
(今から浴衣を着るのは、ちと早過ぎるな)
 彼はそう思いながらこの白い衣服を着た者に好奇の眼を向けた。それは二十前後の小さな小さな白い顔をした弱よわしそうに見える青年であった。それは岐阜の故郷にいるはずの友人であった。
「神中君じゃないか」
 彼は岐阜の県庁に雇員となって勤めているはずの友人が、浴衣がけのような恰好で、つい隣へ遊びに来たとでも云うような風でたずねて来たことが物の調和を欠いているので眼を[#挿絵]った。彼は対手の返事を待たないで、
「何時来たのだ」
「今日、ね」
 神中の声は昔ながら穏かなおっとりした声であった。
「どこにいる」
「すぐそこだ」
 彼は神中がこっちへ来たのは県庁の用向で出張して来たものだと思った。貧しいために中学にもあがれないで、小学校を卒業するなり県庁の給仕になり、最近は雇員になっていると云うことを知っている彼は、出張するようになったからには仕事ができることを認められたがためであろうと思った。彼は平生その境遇に同情している友人だけに悪い気もちはしなかった。
「そうか、それはよく来た」
「試験でいそがし…

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