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萌黄色の茎
もえぎいろのくき
作品ID52266
著者田中 貢太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」 国書刊行会
1995(平成7)年8月2日
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2012-07-15 / 2014-09-16
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 給仕女のお菊さんは今にもぶらりとやって来そうに思われる客の来るのを待っていた。電燈の蒼白く燃えだしたばかりの店には、二人の学生が来てそれが入口の右側になったテーブルに着いて、並んで背後の板壁に背を凭せるようにしてビールを飲んでいた。そこにはお菊さんの朋輩のお幸ちゃんがいて、赤い帯を花のように見せながら対手をしていた。
 お菊さんは庖厨の出入口の前のテーブルにつけた椅子に腰をかけていた。出入口には二条の白い暖簾がさがって、それが藍色の衣を着たお菊さんの背景になっていた。それは長く降り続いていた雨の空が午過ぎから俄に晴れて微熱の加わって来た、どこからともなしに青葉の香のような匂のして来る晩であった。お菊さんは青いカーテンの垂れさがっている入口の方を見ていた。見ると云うよりは聞いていた。それはのそりのそりと歩く重だるいような跫音であった。
「……何を考えてるの、いらっしゃいよ」
 お幸ちゃんの顔がこっちを向いたので、お菊さんは己が北村さんを待っていてうっかりしていたことが判って来た。
「往くわよ」
「何をそんなに考えこんでるの、昨夜のあの方のこと」
 それは近くの自動車屋の運転手のことで、お菊さんにはすぐそれと判った。買ったのかもらったのか、二三本葉巻を持って来て、それにあべこべに火を点けながら、俺はこれが好きでね、と云って喫んだので、二人は店がしまった後で大笑いに笑ったのであった。
「そうよ、俺は葉巻が好きでね」
 お菊さんは男の声色を使いながら、右の指を口の縁へ持って往って煙草を喫むようなまねをした。
「そうよ、そうよ」
 と、云ってお幸ちゃんが笑いだした。
「なんだい、なんだい、へんなことを云ってるじゃないか、なんのこったい」
 お幸ちゃんと並んでいた学生の一人がコップを口にやりながら云った。
「面白いことよ、これよ、俺はこれが好きでね、何時もあべこべに喫むのだよ」
 お幸ちゃんは笑いながら右の指を二本、口の縁に持って往って煙草を喫むまねをした。
「なんだい、そのまねは、何人がそんなことをするのだ、云ってごらんよ、何人だね」
「運転手のハイカラさんよ」
「運転手って、自動車か」
「そうよ」
「それがどうしたのだ」
「おもしろいのよ、昨夜……」
 お幸ちゃんはそれから声を一段と小さくして話しだした。お菊さんはまた入口の方へ眼をやって北村さんのことを考えだした。お菊さんの眼の前には、肥った色の蒼白い、丸顔の線の軟かなふわりとした顔が浮んでいた。この月になって雨が降りだした比から来はじめた客は、魚のフライを注文して淋しそうにビールを飲んだ。
「ここはおもしろい家だね、これからやって来るよ」
 と、客が心持好さそうに云うので、
「どうぞ、奥さんに好くお願いして、いらしてくださいまし」
 と笑うと、
「私には、その奥さんが無いのだ、可哀そうじゃないか」
 客は金の指…

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