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一握の髪の毛
ひとにぎりのかみのけ
作品ID52270
著者田中 貢太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」 国書刊行会
1995(平成7)年8月2日
入力者川山隆
校正者門田裕志
公開 / 更新2012-06-26 / 2014-09-16
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 章一は目黒駅へ往く時間が迫って来たので急いで著更えをしていた。婦人雑誌の訪問記者をしている章一は、丸ビルの四階にある編輯室へ毎日一回は必らず顔を出すことになっていて、それを実行しないと編輯長の機嫌の悪いことを知っていながら三日も往っていなかった。章一の幸福に満ちたたとえば風船玉のふわりふわりと飛んでいるような頭の一方の隅には、編輯長の怒りに対する恐れが黒い影となって泥んでいた。それに昨年あたりからヒステリーのようになっている細君のことも影を曳いていた。
「待っているのでしょ、彼奴が」
 冷たい嘲を含んだ声が顫を帯びて聞えて来た。彼の女と目黒駅で待ちあわして蒲田線の沿線に在る旅館へ往くことになっている章一はぎくとしたが、しかし、家にばかりいる者がこんな秘密を知ろうはずがなかった。
「何云ってるのだ、痴、この忙がしいのに遊んでいられるか」
 章一は袴の紐を結んでいた。章一は右斜に眼をやった。己が今髭を剃っていた鏡台の前に細君の額の出た黄ろな顔があった。
「幾等ごまかしたって、ちゃあんと判ってるわ、彼奴よ」
「彼奴って何だ、何云っているのだ、痴」
「どうせ痴ですよ、痴だからこんな目に逢わされるのですよ、でも、ちゃあんと判ってるわ、彼奴とかってな真似をしてるのを、知らないと思ってるの」
「何がかってな真似だ、云ってみろ、何んだ」
 刀圭界の名流として知られている夫人、教育界の先覚者として知られている老女史、某子爵夫人、某実業家の夫人、新らしい思想家として知られている某女史などの壮い己に対する態度を汚く誇張して聞かす癖のある章一は、それを後悔するとともに細君の嫉妬の対象となっている者を早く知りたかった。
「云えなら、何時でも云ってやるわ、云ったらこまるでしょ」
「何が困る、云ってみろ、何んだ」
「昨日も一昨日も、社へも往かないで、ふざけてたのでしょ、彼奴も酷い奴だわ、あれで名流婦人だなんて、ほんとに呆れるわ」
 章一はまたぎくとした。細君の詞は己の行を一いち見透かしているようであった。章一はもしや何人かが己の留守に来て、おかやきはんぶんに細君にたきつけたものではあるまいかと思ったが、べつに何人も来たようでないから、細君の嫉妬はどうしても創作でなければならなかった。
「痴、お前は、山崎の奥様とでも、おかしいと思っているのか、痴」
 章一はとぼけておいて早く外へ出ようと思った。
「どうせ、痴よ、己の所天を男妾にせられて黙っているのですもの」
「何」章一は耻かしめられてかっとなった。彼はいきなり細君に迫って妊娠のために醜くなっているその黄ろな顔を撲りつけた。「ばか野郎」
 痩せた小柄な細君の体は鏡台の方へ倒れかかった。その細君の右の手は章一が髭を剃った金盥の縁にあたった。金盥はひっくりかえって水がこぼれた。妊娠四箇月の細君の体はその金盥の上に横倒れになった。章一は怒りにま…

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