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黒檜
くろひ
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「歌集 黒檜」 短歌新聞社文庫、短歌新聞社
1994(平成6)年8月25日
初出「黒檜」八雲書林、1940(昭和15)年8月13日
入力者岡村和彦
校正者光森裕樹
公開 / 更新2014-10-05 / 2014-10-07
長さの目安約 47 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

[#ページの左右中央]






[#改ページ]
 黒檜の沈静なる、花塵をさまりて或は識るを得べきか。
 薄明二年有半、我がこの境涯に住して、僅かにこの風懐を遣る。もとより病苦と闘つて敢て之に克たむとするにもあらず、幽暗を恃みて亦之を世に愬へむとにもあらず、ただ煙霞余情の裡、平生の和敬ひとへに我と我が好める道に終始したるのみ。
「黒檜」一巻、秘して寧ろ密かに我といつくしむべく、梓に上して些か我が真実の謬られむことをおそる。他に言ふところなし。
庚辰孟夏
白秋
[#改丁]

上巻


熱ばむ菊
駿台月夜

照る月の冷さだかなるあかり戸に眼は凝らしつつ盲ひてゆくなり

月読は光澄みつつ外に坐せりかく思ふ我や水の如かる



鶏の声けぶかき闇にたちにしがよく聴けば市の病院にして

お茶の水電車ひびくに朝早やも爽涼の空気感じゐるなり

杏雲堂側面未明は暗き[#挿絵]あけて混み合ひの屋根に霜の置く見つ

暁の[#挿絵]にニコライ堂の円頂閣が見え看護婦は白し尿の瓶持てり

屋上の胸壁にして朝あがる一つの気球みつめつ我は

菊、その他の花

菊の鉢は我が家の子久吉爺の丹精になるものなり

逆光の玉の白菊仰臥に見つつはなげけやがて見ざらむ

我が眼先しろきに蘊む菊の香の硝子戸あけて乱れたるらし

視力とぼし掌にさやりつつ白菊のおとろふる花の弁熱ばみぬ

影にのみ匂やかなる[#挿絵]ぎはのその花むらも暮れて来りぬ

杏雲堂屋上展望

冬曇り明大の塔にこごりゐて一つ黝きは赤き旗ならむ

雲厚く冬は日ざしかとどこほる聖堂の黝き樹立うごかず

冬の日

失明を予断せられ、I眼科医院を出づ

犬の佇ち冬日黄に照る街角の何ぞはげしく我が眼には沁む

病院街冬の薄日に行く影の盲目づれらし曲りて消えぬ

鑑真和上

昭和十一年盛夏、多磨第一回全国大会の節に拝しまつりし唐招提寺は鑑真和上の像を思ふこと切なり

目の盲ひて幽かに坐しし仏像に日なか風ありて触りつつありき

盲ひはててなほし柔らとます目見に聖なにをか宿したまひし

唐寺の日なかの照りに物思はず勢ひし夏は眼も清みにけり

童女像の下にて

童女像朱の輝り霧らひ今朝見れば手に持つ葡萄その房見えず

焔だち林檎一つぞ燃えにける上皿一キロ自動計量器

或る画報を見て

両の眼を白く蔽へる兵ひとり見やる方だにおもほえなくに

降誕祭前夜

ニコライ堂円頂閣青さび雲低しこの重圧は夜にか持ち越す

ニコライ堂この夜揺りかへり鳴る鐘の大きあり小さきあり小さきあり大きあり

ある夜

暖房は後冷きびし夜にさへや眼帯白くあてて寝むとす

鳥籠に黒き蔽布をかけしめて灯は消しにけり今は寝ななむ

早春指頭吟
退院直後

花かともおどろきて見しよく見ればしろき八つ手のかへし陽にして

我が宿よ冬日ぬくとき端居には隣もよろし松の音して

今朝見えて置く…

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