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辛夷の花
こぶしのはな
作品ID52350
著者堀 辰雄
文字遣い新字旧仮名
底本 「花の名随筆3 三月の花」 作品社
1999(平成11)年2月10日
入力者岡村和彦
校正者noriko saito
公開 / 更新2011-02-17 / 2014-09-21
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「春の奈良へいつて、馬酔木の花ざかりを見ようとおもつて、途中、木曾路をまはつてきたら、おもひがけず吹雪に遭ひました。……」
 僕は木曾の宿屋で貰つた絵はがきにそんなことを書きながら、汽車の窓から猛烈に雪のふつてゐる木曾の谷々へたえず目をやつてゐた。
 春のなかばだといふのに、これはまたひどい荒れやうだ。その寒いつたらない。おまけに、車内には僕たちの外には、一しよに木曾からのりこんだ、どこか湯治にでも出かけるところらしい、商人風の夫婦づれと、もうひとり厚ぼつたい冬外套をきた男の客がゐるつきり。――でも、上松を過ぎる頃から、急に雪のいきほひが衰へだし、どうかするとぱあつと薄日のやうなものが車内にもさしこんでくるやうになつた。どうせ、こんなばかばかしい寒さは此処いらだけと我慢してゐたが、みんな、その日ざしを慕ふやうに、向うがはの座席に変はつた。妻もとうとう読みさしの本だけもつてそちら側に移つていつた。僕だけ、まだときどき思ひ出したやうに雪が紛々と散つてゐる木曾の谷や川へたえず目をやりながら、こちらの窓ぎはに強情にがんばつてゐた。……
 どうも、こんどの旅は最初から天候の具合が奇妙だ。悪いといつてしまへばそれまでだが、いいとおもへば本当に具合よくいつてゐる。第一、きのふ東京を立つてきたときからして、かなり強い吹きぶりだつた。だが、朝のうちにこれほど強く降つてしまへば、ゆふがた木曾に着くまでにはとおもつてゐると、午すこしまへから急に小ぶりになつて、まだ雪のある甲斐の山々がそんな雨の中から見えだしたときは、何んともいへずすがすがしかつた。さうして信濃境にさしかかる頃には、おあつらへむきに雨もすつかり上がり、富士見あたりの一帯の枯原も、雨後のせゐか、何かいきいきと蘇つたやうな色さへ帯びて車窓を過ぎた。そのうちにこんどは、彼方に、木曾のまつしろな山々がくつきりと見え出してきた。……
 その晩、その木曾福島の宿に泊つて、明けがた目をさまして見ると、おもひがけない吹雪だつた。
「とんだものがふり出しました……」宿の女中が火を運んできながら、気の毒さうにいふのだつた。「このごろ、どうも癖になつてしまつて困ります。」
 だが、雪はいつかう苦にならない。で、けさもけさで、そんな雪の中を衝いて、僕たちは宿を立つてきたのである。……
 いま、僕たちの乗つた汽車の走つてゐる、この木曾の谷の向うには、すつかり春めいた、明かるい空がひろがつてゐるか、それとも、うつたうしいやうな雨空か、僕はときどきそれが気になりでもするやうに、窓に顔をくつつけるやうにしながら、谷の上方を見あげてみたが、山々にさへぎられた狭い空ぢゆう、どこからともなく飛んできてはさかんに舞ひ狂つてゐる無数の雪のほかにはなんにも見えない。そんな雪の狂舞のなかを、さつきからときをり出しぬけにぱあつと薄日がさして来だしてゐるのである。…

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