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ラロシフコー
ラロシフコー
著者
文字遣い旧字旧仮名
底本 「太宰治全集11」 筑摩書房
1999(平成11)年3月25日
初出「作品 第十巻第七号」1939(昭和14)年7月1日
入力者小林繁雄
校正者阿部哲也
公開 / 更新2011-03-11 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より


 その高橋五郎といふ人は、他にどんな仕事をした人か、私は知らない。この人は、大正二年にラロシフコーを譯してゐる。「寸鐵」といふ題で、出版してゐる。大正二年といへば、私など、四、五歳のころで、そのころ此の本の出版が、どんな反響を呼んだか、知る由もないが、けれども、序文を見ると、たいへんな意氣込である。
「佛蘭西文學の旺盛時代たる路易第十四世の朝に於て、突如として一世の耳目を聳動し來れる一書あり、其の簡淨痛快にして靈犀奇警なる人世批評は、天下驚畏の中心となれり、本書是れ也。其著者を誰とかする、即ち當時廷臣とし、軍人とし、政治家として夙に盛名あるも、未だ文筆の人としては左までに顯はれざりしラロシフコー公爵其人なりとす。云々。」と、たくさん書いてゐる。おしまひのはうに、「我國人の間にも豈之が紹介の要無しと言はんや、本書の譯ある徒爾ならざるを信ず。」と揚言して在るところから見ても、この譯書が、日本で最初のラロシフコー紹介では無かつたか、と思はれる。高橋五郎といふ人の名前はなんだか聞いたことのあるやうな氣もするのであるが、はつきりしない。
 この本には、「寸鐵」と表題を打たれ、その傍題として、(又名、人生裏面觀)と印刷されて在る。譯文は、豪邁である。たとへば、
「寵を蒙むる者を憎むは、己れ自ら寵を望む也、之を有せざる者の怒るは、之を有する者を侮蔑して自ら慰安する耳。吾人は世人の尊敬を彼等に牽く所の物を彼等より奪はんと欲して能はざるが故に、己れの尊敬を彼等に拒む也。」いかにも、「廷臣とし、軍人とし、政治家として夙に盛名ある」ラロシフコー公爵その人の息吹が感ぜられる尊嚴盛大の文章である。私は、この譯文を讀みながら、ふとラロシフコーといふ人は、このやうな尊嚴盛大の、さうして多少わからずやでは、なかつたのか、と思つた。この譯文は、その意味で、まさに適譯なのかも知れない、と思つた。
 身もふたもない言ひかた。そんな言ひかたを體得して、弱いしどろもどろの人を切りまくつて快しとしてゐる人が、日本にも、ずゐぶんたくさん在る。いや、日本人は、そんな哲學で育てられて來た。い、犬も歩けば棒に當る。ろ、論より證據。は、花よりだんご。それが日本人のお得意の哲學である。ラロシフコーなど讀まずとも、所謂、「人生裏面觀」は先刻すでに御承知である。眞理は、裏面にあると思つてゐる。ロマンチツクを、頭の惡さと解してゐる。けれども、少しづつ舞臺がまはつて、「聖戰」といふ大ロマンチシズムを、理解しなければならなくなつて、そんなにいつまでも、「人をして一切の善徳と惡徳とを働かしむるものは利害の念なり。」など喝破して、すまして居られなくなつたであらう。浪曼派哲學が、少しづつ現實の生活に根を下し、行爲の源泉になりかけて來たことを指摘したい。ラロシフコーは、すでに古いのである。



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