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鳴門秘帖
なるとひちょう
作品ID52407
副題05 剣山の巻
05 つるぎさんのまき
著者吉川 英治
文字遣い新字新仮名
底本 「鳴門秘帖(三)」 吉川英治歴史時代文庫4、講談社
1989(平成元)年9月11日
入力者門田裕志
校正者トレンドイースト
公開 / 更新2013-04-19 / 2014-09-16
長さの目安約 133 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

吉兆吉運

 それから四、五十日の日が過ぎた。
 暑い。
 南国らしい暑さの夏!
 雄大な雲の峰の下に、徳島の城下は、海の端に平たく見えて、瓦も焼けるようなギラギラする陽に照らされている。
 カチ、カチ、カチ! たえまのない石工の鑿のひびきが、炎天にもめげず、お城のほうから聞えてくる。町人の怠惰を鞭うつようだ。
 徳島城の出丸櫓は、もうあらかた工事ができている。今は、いつか崩壊した石垣の修築が少し残っているばかり、元気のいい鑿の音は、そこで火を出しているひびきである。
 阿波守重喜も、その後、めっきり快方に向っていた。
 ひと頃、家臣たちが眉をひそめた、病的な乱行も止まって、今では、神経衰弱のかげもない程、まっ黒に日にやけている。
 あまたの若侍と一緒に、徳島城の大手から津田の浜へ、悍馬をとばしてゆく重喜の姿をよく見かける。
 水馬、水泳、浜ではさかんな稽古である。ある時は、家中をあげて、陣練、兵船の櫓稽古などが行われた。
 今日も阿波守は、水襦袢に馬乗袴をつけたりりしい姿で、津田の浜のお茶屋に腰をすえ、生れ変ったような顔を潮風に磨かせていた。
 そして、白浪をあげて乗り廻している水馬の群れを眺めて、時々、ニッコとさえしている。
 健康とともに、強い希望の火が、かれの行く手によみがえってきていた。赫々としてきた。
 潮音、海風、すべて討幕の声! そう胸を衝つのである。
 炎日、灼土、すべて回天の熱! そう感じられてくるのである。
 健康な心には、迷信の棲みうる闇はなかった。間者牢のことも俵一八郎の死も、阿波守の脳裏からいつか駆逐されて、その後には、ただ大きな望みだけが占めていた。
 ことに。
 もう五十日ほど前に、沼島の沖合で、法月弦之丞とお綱とが、暴風雨の狂瀾を目がけて身を躍らせたので、とうとう、それなり海のもくずになったであろうという三位卿の報告は、かれをして、ホッとした息をつかせたに違いない。
「幸先はよいぞ!」
 阿波守の意気があがるとともに、出丸曲輪の工事は成り、石垣の普請は近く手を離れるばかり、火薬は硝薬庫にみち、兵船はそろい、家中の士気は揃ってくる。すべてが、不思議なほどトントン拍子に吉事を重ねてくる。
 近くは、前もって盟約のある京の代表者、徳大寺家の密使をはじめ、加担の西国大名、筑後の柳川、大洲の加藤、金森、鍋島、そのほかの藩から、それぞれの使者が徳島城に集まって、幕府討て! 大義にくみせよ! の最後にして最初の狼火をあげる諜しあわせをすることになっている。
 で、阿波守の爽やかな胸から、時々、明るい笑いが頬へのぼる。
 波を見ては笑み、人をみては笑み、馬をみては笑む。
「阿波殿!」
 と、お茶屋の端にかけている三位卿が、それを見て声をかけた。
「ウム、何か?」
「愉快でござりますな」
「心地よいの」
「若侍たちの水馬も、日に日に上達してま…

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