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鳴門秘帖
なるとひちょう
作品ID52408
副題06 鳴門の巻
06 なるとのまき
著者吉川 英治
文字遣い新字新仮名
底本 「鳴門秘帖(三)」 吉川英治歴史時代文庫4、講談社
1989(平成元)年9月11日
入力者門田裕志
校正者トレンドイースト
公開 / 更新2013-04-22 / 2014-09-16
長さの目安約 124 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

お千絵様

 さて、その後またどうしたろうか、お千絵様は?
 かの女の今の環境はしずかであった。爽やかな京の秋がおとずれている。
 部屋の前はひろい河原で、玉砂利と雑草とを縫う幾すじもの清冽は、加茂の水と高野川の末がここで落ちあっているのだと、和らかい京言葉をもつ小間使に教えられた。
 そこは、京の下加茂にある、所司代の茶荘であった。柳の並木を境に、梶井伏見家などの寮園があり、森の隣には日光別坊の屋根が緑青をのぞませている。
 河原に向った数寄屋作りは、お千絵のために建てたように居心地のピッタリ合った部屋だった。
 お千絵はそこの窓から、毎日、加茂の水を見ていた。今も、侍女とは口もきかずに、じっと、そうしているのである。
「弦之丞様……弦之丞様は?」
 と、ひねもす河原に啼いている虫とひとつに、思いつめて水を見ている。
 しかし、その愛人の消息はおろか、まだ自分自身の境遇さえ、いったい、どう変って、どこへ向っているのか、夢のようで思い当たれないお千絵であった。
 病気は、江戸にいた頃から、少しずつよくなっていたので、墨屋敷以来のことは、かすかに想像がついた。けれど、周囲の者は、あの乱心が二度ぶり返ってきたら、こんどこそは癒るまいと医者の注意をうけているので、何をたずねても、肝腎なことは、少しも話してくれなかった。
「お千絵様、殿様はいつもこうおっしゃっておいででございます――」と、そばに侍く小間使がいうのである。
「ある時節がまいりますまで、あなたは松平家の御息女のおつもりで、夏は夏を、秋は秋をたのしんで、気を賑やかに、わがままに、こうしておいでになればよろしいのじゃと……」
「だって私は……」とお千絵は、慰められる言葉にいつも気が沈んで……。
「そんな気もちになっていられませぬ」
「なぜでございますか。殿様の仰せつけ、お気がねはいりませぬのに」
「でも、誰ひとりとして、私のたずねることに、はっきり返辞をしてくれたことがない」
「それは、お千絵様、あなたのお体を思うからでございます」
「……じゃあ私は……といっても、また教えてくれないかも知れぬが、どうして、この京都へくるようになったのでしょう?」
「別に深い意味でございませぬ。あなた様のお体を預かっている松平左京之介様が、京都の所司代にお更役になったので、それにつれて私たちまで、江戸のお下邸からこちらへ移ってまいりました」
「そして、よく私を慰めて下さった、常木鴻山様は?」
「御用があって、大阪表へお越しになったとやら? ……それもよくは存じませぬが」
「じゃ、そなた、万吉という人を知りませぬか」
「存じませぬ」
「お綱という人の噂は?」
「聞いたこともございませぬ」
「では……法月弦之丞という方の御様子を、どこかで耳にしたことはないかえ?」
 侍女は困った顔をして部屋の外へ目をそらした。そして、いいものを…

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