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私本太平記
しほんたいへいき
副題12 湊川帖
12 みなとがわじょう
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「私本太平記(七)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年4月11日
「私本太平記(八)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年5月11日
入力者門田裕志
校正者トレンドイースト
公開 / 更新2013-02-01 / 2014-09-16
長さの目安約 246 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 まだ葉ざくらは初々しい。竹窓の内までが、あら壁もむしろも人も、その静かな、さみどりに染まっている。
「…………」
 正成はさっきから赤鶴の仕事にしげしげと見とれていた。天野沢の金剛寺前に住んでいる仮面打ちの老人で――越前の遠くから移住してきた者だと、この道にくわしい卯木夫婦から聞いている。はじめにここへ彼を案内したのも、卯木の良人の治郎左衛門元成だった。
 それからは、まいど金剛寺へ来るごとに、
「赤鶴、すこしのま、邪魔させてもらうぞよ」
 と、正成は遠慮しながらも、よくこの小屋へ立ち寄った。
 細工場はいちだん低い土間になっている。のみを砥ぐ砥石やら木屑やら土器の火入れなど、あたりのさまは、らちゃくちゃない。――しかし人のあるなしも打忘れて仮面を彫りにかかっている一老翁のすがたと呼吸をじっとみているうちに、正成もいつかしら共にのみを持って一刀一刀に精魂をうちこめているような境地にひきこまれるのがつねだった。――そして、いいしれぬ忘我のこころよさを内にさそわれてくる。
「……翁は幸福な」
 と、うらやまれずにいられなかった。
 ただに幸福なばかりでなく、彼の仕事はのこる――
 卯木の良人も言っていた。「赤鶴一阿弥は近ごろの稀れな名人です」と。
 しかも賃銀は、一作の仮面も、なお一俵の玄米にもならぬ程だそうである。でも不足顔ではない。充ちきっている。しかもこの芸魂の物はあとにのこり、世々の人を愉しませるにちがいない。
 翁はそれがよろこびでこう老いも知らない燃焼に日長もわすれているのだろうか。いや、そんな名利もまったくないのかもしれぬ……。ないだろう、無我な仕事ぶりにはそんなふうなどみじん見あたらない。
 正成は、つい、かえりみる。じぶんらの武門、武士というもの、それらの世界の人間はどうか。
 ――こうしているあいだじゅう、彼は何かはずかしさにしびれ、自身がこのへんの領主であるなどは、思ってみるのも辛かった。なぜ武門には生れたろうか。ひそかな悔いすらおぼえるのだった。
 いやいや、とまた思う。――この仮面打ちの老翁にしろ、語らせれば、人間の子、その生い立ちから、この年まであるいてきた世路の途中では、さまざま、涙なくては語れぬような過去も持っているかもしれない。おそらくはそうだろう。――生国にもいられず、こんな他国へ来て、孤独をこうしてひとり侘び暮らしているからには。
「……それにしても、なおまだ正成ごとき者よりは、ましか」
 彼が、そんな雑念に、ふと、竹窓へ目をそらしていたとき、一阿弥もまた、老いの腰をのばしていた。そして正成のその横顔を、土間のむしろから、じっといつまでも見上げていた。なにか物言いたげな、しかし言い難そうな口もとだった。
 自分の横顔になにを仮面師の赤鶴は見ているのか。
 正成は見られていることに気づいていた。赤鶴の目はその手に持って…

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