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野槌の百
のづちのひゃく
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「治郎吉格子 名作短編集(一)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年9月11日
初出「週刊朝日 夏季特別号」1932(昭和7)年6月1日
入力者門田裕志
校正者川山隆
公開 / 更新2013-03-24 / 2014-09-16
長さの目安約 54 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 チチ、チチ、と沢千禽の声に、春はまだ、峠はまだ、寒かった。木の芽頃の疎林にすいて見える山々の襞には、あざやかに雪の斑が白い。
「あなた。――あなた」
 お稲は、力なく、前に行く人をよんだ。
 かの女の十間ほど前を、三五兵衛は黙々と、あるいて行くのだった。
 振り向いて、棘のある眼が、
「なんだ?」
 と、邪慳にいった。
 生まれてまだ六月か七月ぐらいな嬰児を背に、つかれた足を、弱々と、引きずって来たお稲には、その十間の幅さえ、追いつくのに努力だった。ことに、よほど急ぐ飛脚か、世間をかくれて渡る人間でもなければ、滅多に通らない甲州の裏街道――大菩薩から小丹波を越えるというのは、空身でも、女には、初めから無理な道なのである。
「すこし、休ませて……。この児にも、乳をやらなければ」
「陽の暮までに、青梅までつきたいが」
「もうここまで来れば……」
 と、お稲は、道しるべの石を読んで、そのまま、草の上へ、坐ってしまった。
 嬰児を下ろして、かの女は、白い胸の肌をひろげた。三五兵衛は、明らさまな陽の下で、女の黒い乳くびと、それをむさぼるように吸う嬰児の顔を、ちらと見て、
「焦れってえ、旅だなあ」
 と、暗くなった。
 背なか合せに、どっさりと、草に腰をおろして、
「こんな調子じゃ、いつ江戸表へ着くことやら」
「人のせいみたい」
 と、お稲は、恨むような眼ざしで、
「これは、誰の子ですえ?」
「知れたことをいうな」
「自分が、無理にいうことをきかせた女房――自分が、勝手に生ませた子を邪魔にばかりしてさ――」
「まったく、邪魔だ。おれはなぜ、こんな者を、持って歩かなければならないのかと思う」
「今さら後悔したところで、二人とも、どうにもならない話でしょう。――子が生きたから、捨てようとしても、こん度は、こっちで捨てられやしないからね。一生涯、離れやしないから……」
「どうでもなれ」
 三五兵衛は吐き出すようにつぶやいて、雲を見ていた。
 かれは、女のことばが、いちいち、村上賛之丞のかわりになって、棘々しく、自分に、責め、逆らって来るように思われてならない。
(返り討ちだ。おれは正しく、賛之丞に、返り討ちになっている――)
 こう考えると、三五兵衛は、たまらなく、忌々しかった。顔を見ても、むかむかしてくる。お稲も子どもも。
 また、この子にしても、果たして、自分の子か、賛之丞の子か、それも疑問だ。鮎川の仁介の郡内部屋へ泊ったのが、ちょうど、去年の寒い頃で、お稲は、その時、奪った女だった。――世話になっている仁介の眼をしのんで、用心棒の賛之丞と、よくない恋を盗んでいるのを知って、自分が、無態に、力ずくで、連れ出してしまった淫婦なのである。
(賛之丞の奴、あとで、どんなにベソを掻いているだろう)
 と、想像して、かれは、かれ特有な執ッこい復讐感を満足させると共に、一面に…

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