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無宿人国記
むしゅくじんこくき
作品ID52443
著者吉川 英治
文字遣い新字新仮名
底本 「治郎吉格子 名作短編集(一)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年9月11日
初出「中央公論 夏季増刊号」1932(昭和7)年
入力者門田裕志
校正者川山隆
公開 / 更新2013-03-30 / 2014-09-16
長さの目安約 65 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

女被衣




「蒲団は――お炬燵は――入れたかえ」
 船宿のお内儀さんだ。暗い河岸に立って、いつもの、美い声を、張りあげている。
 息が、白く、冬の夜の闇に見えた。
 寒々と更けた大川の中で、
「おう」
 と、船頭の答えをきくと、かの女は、河岸づたいに、五明楼の庭へ戻って、
「あの……船のお支度が」
 と、女中へ告げた。
 上杉家の国家老、千坂兵部は、茶屋の若主人や、廓から送ってきた女たちの小提灯にかこまれて、ひょろりと、手拍子に、
さても見事になあ
振って振りこむ花槍は
雪かあらぬか
さっさ ちらちら白鳥毛
振れさ どっこい
「お履物を――」
「殿様、おあぶない、肩にお手を」
 兵部は、眸のながれたような眼で、明りにつれて、海月みたいに、ふわふわとうごく、無数の女の顔を、見まわして、
「――船は、どこじゃ。船は」
「庭に、船は上がりませぬ。お履物をはいて、河岸の桟橋まで、おひろいを」
さても是非なや
 兵部はまた、広間に聞える槍踊りの丹前節に、低声をあわせて、
――なびかんせ
台傘、立傘、恋風に
ずんとのばして
しゃんとうけたる柳腰
「きゃーッ」
 前へ歩いて行った女の小提灯が、ふいに、人魂みたいに、宙へ躍った。――と、一緒に、後のすべての灯りと、人影も、
「あっッ」
 と、悲鳴をあげて、ばたばたと、兵部を捨てて、逃げ転んでしまった。
「――な、何とした事。これやひどい、此方、一人を置いて」
 兵部は、よろめいた腰を、とんと、庭石へ落して植込みの闇を見つめた。――すぐ、うしろが大川の水であるために、黒い人影が二つ、眼の前に立っているのが、くっきりと、分った。
 じっと、兵部の眼が、それへ行くと、二本の白い刃が、だまって、彼の方へ迫って来た。兵部は、心のうちで、すぐ、
(来たな!)
 と、眉間に、直感の熱痛を感じて、同時に、
(いつか、来るはずのものが来たのだ。赤穂の浪士――かれらの刺客だ。もうやむを得ん)
 と、静かな、覚悟の中に、策を、そしてまた、執るべき態度を、考えていた。



「ふいに、驚かせて、失礼いたした。――ちと、お訊ねいたすが」
 案外だった。――その言葉のていねいなのに。
 のっそりと、兵部に近づいて来たのは、浪士らしくない。肩や、袖の、綻びから、痛々しい血汐をにじませている。蒼白な顔に、鬢をみだし、一人は十手を、一人は白刃をさげていた。
「町方じゃの」
 兵部がいうと、
「左様――」と、肩で、喘ぎながら一礼して、
「たった今、この庭へ、二十七、八の浪人が、女の生首をかかえ、血刀を引ッさげたまま、逃げこんで参ったのを、御承知はあるまいか」
「存ぜぬ」
 と、兵部は、無駄だった気がまえを弛めて、
「――狂人かの」と、訊ねた。
「いや、狂人ならとにかく、正気を持ちながら、毎日、廓や盛り場で、喧嘩をしては、狂人ほど人間を斬る奴。町方も、ち…

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