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春の雁
はるのかり
作品ID52450
著者吉川 英治
文字遣い新字新仮名
底本 「柳生月影抄 名作短編集(二)」 吉川英治歴史時代文庫、講談社
1990(平成2)年9月11日
初出「オール読物 臨時増刊号」1937(昭和12)年4月
入力者門田裕志
校正者川山隆
公開 / 更新2013-03-27 / 2014-09-16
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

春の雁

 からっとよく晴れた昼間ほど、手持ち不沙汰にひっそりしている色街であった。この深川では、夜などは見たこともないが、かえって昼間はどうかすると、御旅の裏の草ッ原で、子を連れて狐が陽なたに遊んでいたりする事があるという。
 ――通船楼の若いおかみさんは、
「何だえ、包み始めてさ。……負けずに持って帰るつもりかえ」
 歯ぎれのいい女だけに、笑いながら云っても、人を蔑むように美しいのである。
 清吉は、頭を掻いて、
「だって、御寮人様、何ぼなんでも、この唐桟を、十七両だなんて」
「高価すぎるかえ」
「ご冗戯でしょう。新渡じゃあござんせんぜ。これくらいな古渡りは、長崎だって滅多にもうある品じゃないんで」
 内緒部屋の障子の桟には、絶えず波の影が揺らいでいた。すぐ裏手が、晩には猪牙の客を迎える狭い河だった。
「どうするのさ」
 通船楼の若いおかみさんは、清吉には苦手なお客様とみえる。せめて二十両でといえば、良人に着せるのだから、自分の一存ではそう高く買えないと云う。
「じゃあ、とにかく、置いて参りますから、旦那様にもお目にかけた上でひとつ……」
 そこらへ並び散らしてある他の鼈甲物だの、縞だの、珊瑚だの、香料だの、青磁だの、支那文人画の小点などを、片手に提げられるくらいな包みに小ぢんまりと纏めてしまうと、
「これでいいだろう」
 金を出して、通船楼のおかみさんは、唐桟の一巻を、自分の後ろへころがした。
 数えてみると、二十両あるので、清吉はかえって眼をみはってしまった。まだ二十歳を幾つも出ていまいと思われるのに、青い眉と黒豆のような歯並びをしているおかみさんは、
「ホホホホホ。揶揄って上げたんだよ」
 と、独りでおかしがった。
「へえ、ひどい事を!」
「あたりまえさ。良人にわたしが見立てて着せようというのに、穢い値切り方をしたの、買い惜しみをしたのと聞いたら、着るにも気色が悪いと云って、良人だって着やしないし、わたしの意気だって届かないじゃないか」
「これはどうも、手放しなところを」
「お惚気賃は、前払いで云っている筈なんだよ」
 三両の聞き賃かと思えば、ごもっともでといくらでも神妙に聞ける。勿論、清吉だってまだ若いのだし、木の股から生れたのでもないから、こんな女の素惚気は決していい気持なものではないが。
 それに清吉は、三年のうち二年を旅暮しで送っている身だった。家は長崎で、反物や装身具や支那画などの長崎骨董を持って、関西から江戸の花客を廻り、あらかた金にすると、春の雁のように、遥々な故国へ帰ってゆくのである。

ここの世界

 清吉の花客先は、上方でも江戸でもたいがい花柳界だった。金持らしい金持となると、近づき難いし、骨を折って出入りしても、買物となると、横柄ぶっているわりに、貧乏人より金には細かくて、彼に云わせれば、
(みみッちい、見かけ倒しなボロ客だ)…

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