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余話(秘められた箱)
よわ(ひめられたはこ)
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第二巻」 筑摩書房
2002(平成14)年3月24日
初出「新小説 第三十巻第五号 臨時増刊「天才泉鏡花」」春陽堂、1925(大正14)年5月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-07-29 / 2014-09-16
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 厳格らしい母だつた。
 幼時余は、母に、論語を学び、二宮尊徳の修身を聴講し、ナシヨナル・りいどる巻の一に依つて英語を手ほどかれ、和訳すゐんとん万国史を講義された。それらの記憶は、酷く曖昧である。論語では、母のそれでは、友アリ遠方ヨリ来ル云々に就いての解釈を朧気に憶えてゐる。ナシヨナル・りいどるでは、母がそれを購ふ時「なしよなる・りいどるの巻の一……」と云つたので、何やら余は、ハツとしたことを憶へてゐる。「巻の一」といふ響きが、余の姓名のそれと通じた気で、妙なハニカミを感じて、それとなく母の袂を握つたことを憶えてゐる。すゐんとん万国史は、余が稍長じた頃だつたが、たゞその書物の装釘が、灰色に太き金文字を印したる表紙を憶えてゐるのみである。おそらくこれは明治初年版の書物に相違ない。
 これに依つても、当時余が、いかに不熱心な母の弟子であつたか、といふことが察せられてならない。当年、海外にあつた余の父から月々送らるゝ様々な玩具、衣類、絵本の類などが今もなほ余の記憶に新しく甦るにも係はらず、如何なれば母の教訓のみが、斯くも朧気に記憶の向方に薄れてゐるか――と、思ふと、われながら不孝の悪徳を愧ぢずには居られない。
「芝居」の類は、観ることなく、余は中学校を終へた。「小説」の存在を知らずに生長してしまつた。
 薄暗い納戸の隅の、母の二つの書箱には、何んな書物が蓄へられてゐるのか? ――常々それが、余の好奇心をそゝつてゐた。或る時余は、母に此の質問を放つて、思はず彼女の息を塞らせたことがあつた。――何故余が、斯る質問を発したか、と云ふと、それは母が、夜々、余が寝沈まつた後に、その箪笥のやうな格構の黒い書箱から、一二冊の書物を取り出しては、ランプの下で頁を繰り、或る時は涙を浮べ、或る時は、微笑を漂はせ、または溜息を衝き、余念もなく読書してゐる姿を、往々余は、夜着の間から半眼を視開く時に見て、不訝を抱いたからである。――朝になると、その書物は何時の間にか姿を消して、書箱の観音開きには堅く錠が下され、母の机上には、不景気なナシヨナル・りいどると、灰色のすゐんとん万国史等が悄然と積み重ねてあるばかりで、徒らに余の退屈をそゝつたからである。
 余が、その質問を発した時、彼女が何と答へたか、忘れてしまつたが、以来余は、余の枕辺で読書する母の姿に接することが無くなつたので、一層余は好奇心を助長せしめられたのであつた。
 母の旅行中のことだつた。或る日余は、盗賊の心となつて、鍵を盗み、母の黒い書箱の前に忍んだのである。――他人の整理物を掻き乱すことの、留守居中の持主に対するあの痛々しい悲しみは、左様に余の如き不道徳を行つたことのある少数の同志には、容易に理解して貰へるだらう。……余は、馴れぬ手際で、乱暴にガチガチと錠前をねぢつた。――それで、好く、開けられたものだつたが。
 雑誌「文芸倶…

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