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山の見える窓にて
やまのみえるまどにて
作品ID52806
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第四巻」 筑摩書房
2002(平成14)年6月20日
初出「大阪朝日新聞 第一八一〇二号」大阪朝日新聞社、1932(昭和7)年3月31日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-10-04 / 2016-05-09
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 私はこの町(芝区三田――)で、はじめての春を迎へた。おとゝしの春――さうだ、はつきりと四日[#「四日」はママ]であつたことを覚えてゐる、河堤の桜の蕾が漸くふくらみはじめて、もう花見の日も二三日に迫つたことであるから、もうひといき出発を見合せないか、と、その時まで住み慣れた村の友達に切りに別れを惜まれたのであつたが、いつかな私はもう其処にそれ以上滞留するわけにはゆかない様々な苦しい仕儀に面接してゐたのである。村の友達の、もう二三日/\! に誘はれて、だつて私は、ついうか/\と三年もの間その村に住んでしまつたのであるから。綺麗な村で桜が散ると、海棠の林が、村人の遊び心を誘ひ、間もなく蛍が現はれると、若鮎の季節となつて舟遊びで賑ふ、夏は海がちかく、秋は狩に適した山々が――と、いや、ここでは春の一節を述べるのであるが、思ひ出すと、恰も浦島太郎の夢を髣髴する村でまつたく私は、わづかの滞在の目的で訪れたまゝつい、そんなに永く住み込んでしまつたのであつた。――出発と決つたら、村の呑気な友達が馬をつらねて私を送つて呉れた。私らは赤毛布を敷いた水車小屋の馬車に乗せられて、夢見心地で桜の堤をおくられた。
 私は次の年の春を堅く約して、握手や頼ずりに胸を塞がれて、畑中の停車場で男女の友と別れたのであるが以来あちこちに転々としてハガキの往復のいとまも見つからぬやうな、いへば去年の春は何処の宿で送つたかもうろ覚えであるかのやうな慌しさで、あの村の夢などは、夢の中のはかない夢のやうに、忘れるともなく忘れてゐた。
 ところが或日、不図気づくと私のこの窓から遥かの空、うらうらとした霞の裾に蜿蜒とつゞく連山の姿が見えるのに、大いに驚いた。この陋屋は高台にあるが、まさか都の、こゝらあたりの街中から左様な山々が見えるなどゝは凡そ予期しなかつたので、第一、滅多にそんな眼つきで空の彼方などを眺めた験しもなかつたのである。山も山、私が住み慣れたあの村は、その山つゞきの麓にうづくまつてゐるはずだ。
 花見へ、酒買ひへ、川漁へ、また人に会ふにも、送るのにも、あの村では馬々々――ワカクサ、マガレツト、タイキ、リリイ、ドリアンと立所に十余頭を数へられるのであるが、私は街に響く車の音を聞きながら、春の陽差しにうつら/\してゐると、巷の騒音が、あの時歌をうたひながら桜の堤を送られて来た時のなつかしい蹄の昔に聞き違へられるやうである。
 どこまでも/\私を送つて来たあれらの馬の蹄の音を、私は、この先、何処の国のどんなホテルで過さうとも、春と気づけば、はつきりと思ひ出すに違ひない。――あんな近くの村ではあるが、何時再び訪れ得るか、一刻先のことは有耶無耶である。



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