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ひとりごと
ひとりごと
作品ID52811
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「作品 第三巻第十一号(十一月号)」作品社、1932(昭和7)年11月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-10-14 / 2014-09-16
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

(十月十六日)

          *

 きのふ、おとゝひ、さきおとゝひ――と、あゝ、何といふ浅ましさであらう、嫌はれ、軽蔑され、憎がられて、ウマクもない酒をのんでの気違騒ぎ、あゝ、もう厭だ、断然、酒は御免だ。ペンを執らうにも、体全体がガタ/\とふるへてゐて、一向に埒はあかぬ。
 メフイストフエレス「先づ第一に飲助達に御紹介申しませう。さうするとあなたは必ず此世は大変簡単に渡られるものだといふ合点がゆくに違ひない。奴等と来たら毎日毎日お祭り騒ぎの大浮れで、恰も猫が自分の尻尾に戯れまはるかのやうに、少しばかりの頓智に自惚れて狭いところをぐる/\廻つて居るのです。訴へるほどの頭痛でもない限り、酒場の亭主に信用のある限りは、何の苦労もなくあゝした態の大浮れです。」
 これはメフイストがフアウストに酒場の学生を紹介する野暮な科白であるが、俺は失敗してはならないと思ふ酒の場合には、そつとこいつを思ひ出して要心するのだが、うつかりと、また大失敗を演じてしまつた。凡そ俺は知る限りの酒客の中で斯んな科白を投げられて適当と思ふ人物を発見したためしはないのであるが、たつたひとり俺だけは、この言葉に厭といふほど打ちのめされる思ひがするのが常例なのだ。あの時酒場のジーベルやアルトマイエルは、メフイストの科白に憤慨をして決闘を申し込んだが、俺にはそんな生気が皆無で、後悔と憂鬱ばかりなんだから悲惨だ。俺も盃を執つて以来、指折り数えて見れば、はや十余年、――嫌はれ、軽蔑され、憎がられて十余年、友達に、恋人に、そして親に――。
 これはどうも常規を脱して俺は俺の酒を罵つてばかりゐるが、そして白面の俺に好意をもつても誰ひとりとして俺の酔態を許した者とてもなかつたところが、あの「自然と純粋」の著者は、――余は寧ろ君の酔態に好感を持つ云々といふやうなことを云つて俺を驚かせた。あれには俺は、ほんとうに驚いてしまつた。何故なら、あいつと来たら就中俺の酔態などといふものは顰しゆくしさうな、一見すると、内に(顔や姿を云ふに非ず)モーゼのやうな厳しさを持つかのやうな犯しがたい紳士なのだから――。俺は、唖然とした。こいつは、どうも、この男の前ではうつかり酔へぬぞ――と返つて俺はさう思つて、あぶなくなりさうになると秘かに自分に向つて俺はメフイストの呪文を呟いだものだ。勿論、要心したからと云つて、綺麗な酔漢になれるような俺ではない。酔つた/\、しどけなく酔つて、大いに彼に厄介をかけつゞけた。いつもしどけなく酔つた俺を坂の上にある俺の館までおくりとゞけて呉れた。そして俺の酔態に対して一言のひなんも浴せた験しがない――それは何も彼にとつては俺に限つたわけではないのだが、俺には未曾有な経験だ。悲しみも弁へ憂慮も知り、そして春の波のやうに長閑な感情に豊かなあの秀才が、陋ろうの酒も厭はず、醇々として芸術の道に遊びつゝ…

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