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その村を憶ひて
そのむらをおもいて
作品ID52822
著者牧野 信一
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「都新聞 第一六五四四号~第一六五四六号」都新聞社、1933(昭和8)年12月8日~10日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-10-24 / 2014-09-16
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

怒田村のこと

 鬼涙、寄生木、夜見、五郎丸、鬼柳、深堀、怒田、竜巻、惣領、赤松、金棒、鍋川――足柄の奥地に、昔ながらのさゝやかな巣を営んでゐるそれらの村々を私は渡り歩いて、昆虫採集に没頭してゐた。私の、いろいろな短篇小説の中に屡々現れるいくつかの村の名前は、あれは悉く現実の名前なのか? といふ意味の質問を、先夜シエーキスピアの会の帰りに宇野浩二氏から享けた。
「夜見、鬼涙、五郎丸、鬼柳、竜巻?」
 と宇野氏は数えられた。
 私は何故か、稍暫し返答に迷つた後に、
「鬼涙と竜巻とを除いた他は、凡て在りのまゝの名前です。」
 と、ぼんやりしてゐた。
「では、その二つの村の名前は?」
「創作……」
 私は極く低声に呟くのであつた。といふのは今では私は、その二つの名前が自分だけの命名であつたことすら忘れてしまつてゐたのであつた。自分の夢の中には、まるでその二つの村が、そのまゝの名前をもつてこの世に存在することになつてしまつてゐるのだが、気づいて見れば、それは赤松と怒田の二つが在りのまゝの原名だつたのである。それ故私の夢の竜巻と鬼涙は、名前を別にすれば、歴然とこの世に存在する小さな、そして奇妙な村である。――不思議な村である。
 怒田――そんな村が何処にあるのか私達は見当もつかなかつたが、此名前は幼年の時代に稍ともすれば聞かされたものだ。
「そんな顔をする者は怒田へ行くが好い。」
 私は憤りつぽい少年で、つまらぬことに直ぐと肚を立てゝ、ふくれ顔を保つのが悪い癖だつたのだ。で、私がそんな顔をしてゐると祖父や祖母が、屹度左ういふのであつた。
「此度源さんが薪をつけて来た帰りに、源さんの馬に乗つて怒田へ伴れてつて貰ふが好からうよ。」
 怒田といふところから薪を運んで来る源さんといふ人は、仁王のやうな大男で、いつも憤つとしてゐるやうな不気嫌さうな赤銅色の大きな顔で相手が何か話しかけても碌な返事もせず反方の空ばかり向いてゐるのだ。それでも更に相手が話しかけてゆくと、さもさも迷惑さうに「俺ら、そんなことは知んねえだよ。」と突つ放すだけだつた。見るからに人間嫌ひであるかのやうであつた。然し口や態度は左うであるが、人情は至極親切であるとのことであつたが、如何にも彼の挙動から親切さなどを想像するのは困難であつた。でも、彼が薪を降ろし終へるのを待つて、私が彼の馬の脊に飛び乗ると、何時間でも彼は小屋の前に突ツ立つたまゝ空などを眺めてゐて、私から先に馬に飽きて乗り棄るまでは、素知らぬ顔を保つてゐた。
 然し親切であるなしは別にして、怒田村の人々は源さんに限らず、誰も彼もが皆な明けても暮ても怒つた顔ばかりで、先祖代々、子々孫々までも、憤つとして、誰とも口を利きたがらぬといふのであつた。それは何ういふ地勢と風土が彼等を左様なさしめたものか――。
 ともかく気嫌の好い顔つきや愛嬌に富んだ態度を目出…

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