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浪曼的月評
ろうまんてきげっぴょう
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第五巻」 筑摩書房
2002(平成14)年7月20日
初出「早稲田文學 第二巻第三号~第五号」早稲田文學社、1935(昭和10)年3月1日~5月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-10-26 / 2014-09-16
長さの目安約 39 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 今月、雑誌を手にとるがいなや、自分が評家の立場であるなしにかゝはらず、待ちかまへて読んだものが、三つもあつたことは大変に愉快でした。それは、「早稲田文学」の、室生犀星作、弄獅子と、「中央公論」の、広津和郎作、一時代と、そして、「改造」の、眼中の人、小島政二郎作の三篇です。今月の、「早稲田文学」の論説壇で、二人の新進作家を語るといふ、中谷博の、冒頭を今不図見たのでありますが、斯様に述べられて居ります――小説は、およそ、面白いものでなければ困る。読者は、決して、作家の親戚でも親友でもない、どれほど面白くなくとも、義理から読んで呉れる筈のものなのではない、況んや文学青年あつかひして、甘く見くびつたりさるべきものではない。さればとて読者をば、選ばれたる人々とか常に時代の尖端を切つてゐる人々とかに解しても嘘にならう。要するに読者とは、平凡な社会人を以つて構成された読書生の一群と見るが穏当であらう――と。
 さうです、いつも例へばわたし自身にしろ、面白さうなものばかりしか読みません。自分が作家生活をするようになつてからは、これではいけないと感じながらも、どんなに評判の好いものでも、つい無精になつて、十年、十五年と読み慣れてゐる作家のものより他には読みません。で、さういふ癖は改めるに如くはないと思ひましたので、むしろ読みたいものは後まはしにして、見学式な望遠鏡を執らなければ、この筆を執る意味もなくなると眼を据えて十日も前から凡てのものをぼつばつ読みはじめて、そのいちいちに就いては決して自分らしくかた寄らぬ感想を述べるつもりで居りますが、さういふ間にもやはりその三篇のことが眼の先におどつて、落つきません故、先に述べさせて貰ひます。どうぞ、わがまゝ勝手な評者と思はないで下さい。
 さて、わたしは、一月号の「早稲田文学」で、犀星作の、弄獅子をはじめは何気なく読みはじめたのです。標題を眺め、小標題を見て、詩のやうな、そして随筆のやうに凝つた作品かとおもひました。白状すると、わたしは、さつきも申したやうな次第で、室生犀星の小説が近年になつてますます薄気味悪いやうな底力がみなぎりあふれ、かれとしての芸術のうんあうにむかつて猛々しく、恰もそれはブルドツグのやうな骨組で、且つはまた、夜の大空におどる怪竜の、爪の光りか、鱗の輝きか――といふやうな、その他さまざまな好評を聞いても、つい/\無精を決めこんで居りました。詩や随筆は折にふれては愛読し、小説だつて、ずつと前には本も幾冊か買つて、おもしろく読んだことはあつたのですが、どうしたといふわけもなく何時の間にか遠ざかつて了ひました。薄気味の悪い偉い作家だなどときくと、何だかわたしは、ますますおつかなくなつて、稍ともすると蛇屋の前でも通る時のやうに逃げ出しました。やがては、それが多くの人々に尊敬されてゐる作家だと聞けば聞くほど、怕気をふ…

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