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半島の果にて
はんとうのはてにて
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「牧野信一全集第六巻」 筑摩書房
2003(平成15)年5月10日
初出「文藝通信 第三巻第四号(四月号)」文藝春秋社、1935(昭和10)年4月1日
入力者宮元淳一
校正者門田裕志
公開 / 更新2011-11-22 / 2014-09-16
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)
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本文より


 神妙な療養生活がどうやら利きめがあらはれて、陽気もおひおひと和んで来ると、酒の有りがたさが沁々と感ぜられるのである。やはりわたしは、わらはうとおもへば、どうやらわらふことも出来さうな風来の大酒家であり、若しも陶然としてさへゐれば、何処に住んでも胡蝶物語の夢想兵衛であるらしい。この間、わたしの近年の幻想的なる作品が、マンネリズムにおち入つて云々といふことを尾崎士郎君が好意と憐れみをもつて鞭撻してゐたが、わたしはこの四五年の間のいくつかの自作を回想して、さうとはおもはぬのである。それらの幻想的なるものは、いつもそのひとつひとつが絶対なる、認識し得られる限りの、形似上学的、物理学的なる無辺の宇宙の、夫々一片の花びらであつて、現実派の所謂経験的作品の如く、その経験的なる前後の脈絡ともいふべき、換言するならば凡そマンネリズムなる救ひが、見出し得ざればこそ、稍ともすればぽつこりと無明の谷底に転落するのだ。わたしには、例へばきのふの恋愛経験を、直ちにけふの作品として芸術化する手腕がなく、またいづれにしても芸術の目的は、経験を超絶したる、在り得ざりしことながら、在り得べきと感ぜらるゝ色彩の島へ――と希ふ心のみが切なるものである。
 斯ういふことを呟くと、わたしは大演説がしたくなる。だが演説だとか議論だとかは、或る場合にのみ限られたる単なる生活上の方便であると思ふのだ。
 それにしてもわたしは、ひとりで春先の酒に溺れてゐるといふわけではない。「陶然――」とか「胡蝶――」とか「夢想――」とかといふ、言葉でいふと見るからに泰平なる逸民の、あはれな夢とも見紛ふけれど、凡ゆる現実の、非常なる、不幸と、宿命の星に洗はれたるエレヂイの桟道を這つて、島の磯方に行き倒れた在りのまゝなる吾身の夢に髣髴とするのは、人もなく、運命もなく、意外にも、さながら春の酒に酩酊して、胡蝶の影がちらちらとする態の、わけもない孤独のうつゝに過ぎず、こんな寧ろ、云はゞ健全なる Kinic 的なる経験を積んでゐても、経験などといふものは途方もなくツマラナく、創作の要は、結局おのれの、「ピグメリアン」を育てるより他に希望はないとおもふのである。風来の犬儒派に、何うして「嚢中已有銭」などゝいふ大層な歌がうたへるものよ。陶然たるものを夢見ようと、夙に白面なる眼を挙げて灯台のあかりなどを見あげてゐる静かなる浅春の島の夜半に過ぎない。



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